ナビゲートのロゴ
ナビゲート通信は主な更新情報をお届けするメールマガジンです。ご登録はこちらから。

下記はページ内を移動するためのリンクです。

現在位置

 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.3-1

引き継ぎ

更新 2016.04.21 (作成 2006.10.16)

| ←BACK | INDEX | NEXT→ |

第3章 動く 1.引き継ぎ

「おはようございます。ちょっとみんな聞いてくれ。今日から平田さんの代わりに来てもらうことになった水沼富士夫君です。今日から引き継ぎをしてもらうのでよろしく」翌日、平田が会社に行くと崎山が紹介した。
「何もわかりませんがよろしくお願いします」と、水沼も立ち上がってあいさつした。
妻と話をし腹を括った平田は、水沼の力量を慮るような気遣いはしなかった。淡々と事務的に引き継ぎを進めた。
平田の仕事はそう簡単に覚えられるものではない。まして予算の編成中である。かなり時間がかかる。2週間という制限された時間内で済まさなければならないので、平田は手際よく説明していった。
しかし、気づくと水沼は一切メモを取っていない。
「あんた、メモを取らんで大丈夫かね。俺は2回は言わんよ」
「まあ、何とかなるでしょう」
こっちに来る前に、一応勉強してきたという自負があるのであろう。軽く受け流された。
「あっ、そう。それじゃいいよ。後でどうなっても知らないからな」
“自分を過信しすぎている”と思いながらも、平田は自分のペースで引き継ぎを続けた。
“なーに、そんなこと言ったってどうせ製造部のご威光のもとでは言うことを聞かなきゃしょうがないだろ”既に水沼は、勝者の論理に立って考えていた。しかし、人はそんな物理的力学だけで動くとは限らない。人には心がある。特に捨て身になったときは、刺し違えてでもと思うこともある。
そんな手応えのない引き継ぎを4、5日続けたある日、平田は昼休みに豊岡のところへ顔を出した。ここのところ昼休みには必ずどこか外に出かける日が続いている。製造部にはいる気がしないからだ。
缶コーヒーを片手に豊岡の机の傍らに座った平田は、
「ぜんぜんメモせんのやけ。舐めとるよ」と、愚痴ともつかない引き継ぎの様子を話した。
「いいやんか、後で苦労するのは本人や。引き継ぎ書だけ書いて、印鑑押させたらおしまいよ」
「なるほど。うん、そうしよう」仕事を甘く見ている水沼の態度に、腹を立てていた平田は、豊岡の入れ知恵で引き継ぎを要領よく終わらせ、“後で困っても知らねーぞ”と、投げやり気味にさっさと広島工場へ転勤していった。
仕事というものは、どんな仕事にも必ず歴史があり、担当者の思いがこもっている。
なぜ、この仕事を作ってきたか。なぜこういう方法をとっているか。どう役立てようとしているのか。など、そこに至るまでに担当してきた人の血のにじむような思いがこもっているものである。
まして実務は、机上の学問や理論で通用するほど単純ではない。工夫を重ね、環境変化に対応し、改善を繰り返しながら現在があるのである。
その心を理解してこそ、初めて仕事を理解したと言えよう。
心さえ理解すれば、後は工夫で逆に何とかなるものである。
学問で学んできたから、即実践できるなどとは決して思ってはならない。
工場別原価計算や損益計算は、平田が工場の運営状況を係数面から見られるようにと、野木に鍛えられながら必死の思いでゼロの状態から作ってきたシステムである。それを、勉強してきたからなんとかなるだろうと軽く見ている水沼は、あまりにも仕事の重みを見限りすぎていると言わざるを得ない。

日が経つにつれ、平田の気持ちも落ち着きを取り戻してきた。平常心を取り戻すと本来の闘志がよみがえってきた。同時に浮田への闘争心もわき上がった。
“これで浮田に遠慮することはなくなった。思いっきりやってやろう。俺だけが割りを食うのは納得がいかん”
そう思うと平田の気持ちの切り替えは早かった。
それに、いつまでもうじうじしていては、一生懸命働く広島工場の人たちに失礼ではないか。平田は心を新たにした。
広島工場は同じ敷地内であり、仕事の関係でしょっちゅう行き来していたからほとんどの者が顔見知りであり、初日から違和感はなかった。工場の人たちは純真であり、作為的な意地悪さがないので、製造部の空気に耐えてきた平田には天国にでも来たように極めて居心地が良かった。和気あいあいに働けば楽しい職場であった。
仕事は品質管理である。製造に使う原材料の品質チェックや処理水の製造、ラインを流れる製品の抜き取り検査、排水処理の管理など多岐にわたっていたが、10名のクルーを組んでローテーションで行うのである。もともと、大学では化学を専攻した技術屋の平田には、機器のオペレーションなどを習うとそれほど難しい仕事ではない。すぐに一人前としてローテーションに組み入れられた。しかし、仕事は時間に厳しかった。定期的に抜き取り検査をしたりチェックしたりしなければならないからである。
品質管理は統計学である。ラインを流れる製品群のある一定のロットの中の数個のサンプルの品質が、一定のスペックの中に収まっていれば全数が収まっているだろう、という推定である。だから、いくら品質がスペックに収まっていてもロットが狂えば意味がないので、時間には厳格である。平田もローテーションの中で、昼食時間や休憩時間からの復帰には気を使った。製造部にいるときはどちらかというとルーズなほうだったので、唯一これだけが時間に縛られているようで苦になった。

平田が広島工場に転勤して1週間が過ぎたころ、水沼が緊張した面持ちでやってきた。
「平田さん、すみませんがここを教えてくれませんか」
「それは引き継ぎのときに話したやんか」
「聞いたと思うんですが、ようわからんのですよ」
「だから言ったろう、ちゃんとメモしとけよって。俺は2回は言わんよって。あんた、何とかなるやろって言うたやんか。自分で言うたんや、何とかしろよ」
「そう言わんとお願いしますよ」水沼の顔は青ざめている。それもそうであろう。できなかったら大変なことになる。
「もう忘れたよ。俺も自分の仕事を覚えるんで頭が一杯なんや」平田は相手にしなかった。
“やっぱり俺の思ったとおりや。そんなに簡単なもんやない。もっと謙虚にならにゃ”思い上がった水沼が愚かしく思えた。
「もう時間が来たから」と、追い返した。

「正気堂々」についてご意見をお聞かせください

▲このページの先頭へ

お問い合わせ・ご連絡先
Copyright © 1999 - Navigate, Inc. All Rights Reserved.