更新 2016.04.21 (作成 2006.11.06)
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第3章 動く 3.センス
一時金の要求案は、執行部原案どおり中央委員会で承認され、11月12日(火)、会社に要求書が提出された。平田が広島工場に赴任した翌日だった。
中国食品は毎火曜日が役員会なので、それに報告できるように、要求提出は朝一番で行われるのが慣わしとなっている。組合の要求説明を行うだけで突っ込んだ話もないので、三役だけで行っている。
回答日は2週間後の11月26日(火)である。それまで、組合はじっと待つのである。嵐の前の静けさだ。
その間も、平田の頭の中は要求基準の見直しでいっぱいであった。人一倍責任感の強い平田は、なんとか出口を見出そうと、寝ても覚めてもそのことばかりを必死で考え続けていた。
そんなとき、
「今週末、“ひらまさ”釣りに行きませんか。回答が出たら交渉で忙しくなりますから、今週くらいしか行かれませんよ」と、作田が釣りに誘ってきた。
いい加減ストレスも溜まっていたときであり、平田もやっとその気になった。
「そうやね。行きましょうか。他には誰が一緒ですか。よかったら、岩井を誘いませんか」
「いいですよ。私もそうしようと思っていたんですよ」
話は簡単に決まった。
平田は、地元の人たちがつくっていた「釣り天国」という磯釣りクラブに入っていた。地元のすし屋のおやじが会長をしているのだが、人のいい話し好きのおやじで、店に飾ってあった魚拓の話から釣り談義になり、平田も入会させられた。このおやじは、釣ってきた魚を自慢話と一緒に今日のお勧めとして安く客に出していた。新鮮だから評判が良い。
このおやじが、客に釣りの自慢話をしながら入会を勧めるものだから、今や37名と大所帯になっていた。平田は岩井も一緒に入会させた。先日、労使懇親会が行われた‘福嶋’の親父もこのクラブのメンバーである。
岩井慎吾は28才の電算室のシステムプログラマーで、平田が工場の原価計算や損益計算を電算化するとき、システムを作ってくれた。
話を持っていったとき、同じ電算室で若手のリーダー格である荻野幹夫が、
「岩井が一番いいでしょう。彼のプログラミングセンスは一流です」と、岩井を付けてくれたのである。平田が、吉田や豊岡から組合に誘われたとき、ほかに誰がいるのですかと尋ねられ、一番に思い浮かべた人物である。電算室は歴史が浅く、できてまだ8年くらいしか経っていない。メンバーも20代の若手ばかりである。そのため、初年度入社の荻野はすでにリーダー格となっていた。
「プログラミングはセンスが大きく左右します。プログラミングは仕事を熟知するところから始まります。仕事の流れそのものをシステム化する仕事だからです。
プログラムは回りくどく書くとシステムが重くなり、計算も遅くなるし電算にも負荷がかかります。また、使い勝手も悪くなります。その点、岩井のシステムは回り道せず合理的で直線的にプログラミングされています。岩井なら間違いないです。私も信頼しています」荻野は、岩井を信頼しているから担当にするのだと理由(わけ)を説明してくれた。
基本的に、電算室のメンバーはプログラムは知っているが、各担当者が日常行っている業務そのものは知らない。それを教えるのが依頼者の仕事だ。したがって、依頼者自身が仕事を熟知していないと、プログラマーに伝わらない。どこでデーターを入手し、誰がどのように入力し、計算や加工をどのようにするか、またチェックをどこで掛け、どこと関連を持たせるか、アウトプットのタイミングとスタイルや表のレイアウトをどうするかなど、まさに仕事そのものを依頼者の意思として電算室のメンバーに伝えるのが依頼者の仕事であり、システム化なのである。
電算室と実務担当者との間で、トラブルが発生していることがよくある。実務担当者がシステムを依頼しても、電算室がなかなか言うことを聞いてくれない、というのがトラブルの内容である。
しかし、その多くの原因はプログラムを依頼する側が仕事を知らなさすぎることにあるようだ。電算室に持っていけば、あとは電算室が何とかするものだと安易に考えているからである。ただこういうのが欲しいとだけ言って、マル投げする。そのくせ思ったようなものが出ないと、電算室が何もしてくれないと文句ばかり言っている。これは本末転倒である。電算室は依頼の内容がよくわからないからシステムの組みようがないし、依頼者の無責任さに腹が立つ。
電算室にしてみても、どこにどんなデータがあり、誰がどのタイミングで入力し管理しているかなど、システム自体の事情もあり、できることとできないことがある。
システム化の仕事は、依頼者自身が仕事を知り尽くし、仕事の始まりから完了までの細部に至るフローを詳細にイメージし、今回やるべきことの設計図を描き、プログラマーに理解してもらうことから始まる。
プログラマーは言われたことをシステムに置き換えるのが仕事なのである。電算室を悪者にするのはお門違いであろう。
平田がシステムを構築するとき、岩井はそのセンスの良さを遺憾なく発揮してくれた。平田の意思をよく理解し、シンプルで合理的な仕組みを構築してくれた。問題点もよく提起してくれ、一緒に考えて解決してくれた。
平田が感心したのは、平田がここでチェック項が欲しいとか、必要なところでの縦横小計とか、これとこれは同じ答えにならなければならないと思っているところには必ずチェックを掛けてくれたりしていたことである。入力時のカーソルの動きなど実に気持ちよかった。平田が言うまでもなく、痒いところに手が届くようにプログラミングされていた。
昔はバッチ処理方式だったから、プログラムのセンスは特に大事だった。ただ、最近のコンピューターは能力が飛躍的に向上し、電算システムそのものもデータベースが主流であるから、こうしたセンスの良し悪しが目立たなくなってきているかもしれないが、それでもSEの仕事にはこのセンスの良さは大事だろう。
11月16日土曜日、3人は早朝から浜田に出かけた。車の中でも昔の釣果や今日の潮の状況など釣り談義に花を咲かせ、賑やかである。
平田は、前日から仕掛けの手入れをしながら、久しぶりの釣行に胸をワクワクさせていた。興奮してなかなか眠れなかった。
釣りをする人は気が長いとよく言われるが、むしろ逆である。気の短い人に向いている。ウキや竿先をジッと見つめ、その先の魚の動きをあれこれと想像し、仕掛けの状態はいいか、餌はちゃんと付いているかなどと思いをめぐらすときの緊張感は、気短な人ほど興奮度が高い。
気の長い人は、別にどうでもいいよとほったらかしで、感動も何もない。気が短い人ほど、釣りの楽しみが倍増する。
平田は、いつも
“釣れなくてもいい。海は見ているだけで気持ちがいい。日ごろの鬱憤やストレスが一度に発散させられる”と思う。
日本海にはいい磯がたくさんある。潮通しが良く海がきれいだ。黒潮から別れた対馬海流が豊富な魚を乗せて北上してくる。
平田らがいつも行くのは浜田の産湯海岸である。入り組んだ岩礁地帯が続き、磯釣りの好ポイントである。
行き付けの釣具屋で餌を調達し、渡船屋へ急いだ。