更新 2016.03.03 (作成 2005.02.21)
| 正気堂々Top |
第1章 転機 2.創業の地
平田が勤める中国食品は、広島から国道を20キロばかり北へ走った可部という小さな田舎町にあった。近年は広島のベットタウンとして発展しているところで、人口は4万人くらいである。
北に中国山地が控え、そこから流れ出た大田川が南西の方角に流れており、風光明媚な水のおいしい所である。古くからの造り酒屋が数件ある。
中国山地はどの山も急峻である。この辺りの言い方だが‘山が深い’。
山が深いから水がおいしい。冬には雪がたっぷりと降る。そのためスキー場も数多く存在する。本格的スキー場としては日本最南端に位置するため、九州、四国からも多くのスキーヤーが訪れる。
その雪解け水が深い山にゆっくりろ過されて湧き出てくるのである。
水温も冷たく水がきれいなため、中国山地水系は山女や鮎がたくさん獲れる川が多い。
大田川やその支流でも、夏には良質の鮎がたくさん獲れる。広島市内はもとより東京、大阪にも出荷されており、‘大田川の鮎’といって東京の料亭では1匹4,000円にもなるそうである。今や全国的に有名なブランドになっている。盛期には大阪からツアーを組んで大田川の鮎を釣りにくる太公望もいる。
釣り好きの平田も夏には長い鮎竿を出し、多いときには3、40匹も獲って帰る。たいていはご近所や日ごろお世話になっている方に分けるのであるが、たくさん獲れたときは1匹350円で仲買人に卸す。この350円が東京の料亭に上るときには4,000円にもなるのである。需要と供給のバランスで成り立っている市場経済のしたたかさにあらためて感心する。
いつもただで食べている平田にしてみれば、4,000円の鮎は、一体どんな人がどんな気持ちで食べているのだろうかと思う。たかだか20cmそこらの魚である、まず、身銭をきって食べる人はいないだろうと思う。
旬のものであるだけにそれでも品不足のようで、仲買人は必死で買い集めている。6月から8月までの3カ月間の商いである。この3カ月間で一般サラリーマンの年収分くらい稼ぐそうだから、腕と才覚があれば商売とは面白いものである。
平田の知っている仲買人は、前日仕入れた生きた鮎を一晩いけすで飼い、お腹の中のものを排出させる。鮎は川底の石についている珪藻類を餌にしているため、たまに小石を食んでいることがあるからである。東京の料理屋に上る鮎はそのくらいケアしないと価値がないのであろう。
翌朝、氷詰めされて航空便で出荷され、その日の夕方には美食家の口に入る仕組みになっている。
鮎は弱い魚で、運搬が難しい。鮮度を保ちながら運搬する一番いい方法は、細かく砕いた氷の中に氷間を埋めるように水を少し張り、塩を少し混ぜる。その中に生きたままの鮎を入れるのである。瞬間的に仮死状態になり雑菌からもシャットアウトされて、1日くらいは十分鮮度を保つことができる。
鮎は香魚とも呼ばれスイカのようないい香りがする。鮮度が落ちると香りがなくなり価値がぐっと落ちる。この香りが何とも言えずうまいのである。平田は魚の中では一番うまいと思っている。
東京へもこうして出荷される。
雪解け水の一部は、あるいは地下水脈となり、長い時の流れを経て、ゆっくりと目を覚ます。杜氏の手によって酒酵母の息吹が吹き込まれ、銘酒となって目覚めるのである。
全国に銘酒は数多くあるが、広島の酒もおいしい。‘賀茂泉’の冷酒などは酒好きにはたまらない。アルコールがあまり行けない平田でもこの酒は旨いと思う。
広島の水は軟水が多く甘口の酒になりやすい。そのため酒好きにはあまり好まれない傾向にあるが、広島の杜氏はこれを克服する独特の醸造法を編み出し、旨い酒を造り出した。
軟水醸造法といって、まず酵母菌をしっかり育ててから仕込みに入る独特の醸造法である。
その‘前仕込み’でしっかり造った麹は、そのおかげで香りが高く濃醇な味わいを醸し出す。
兵庫県で取れる酒米の‘山田錦’を使った吟醸酒はさらに旨い酒になっている。
品評会などで金賞を取ろうと思えばこの米を使わないと取れない。と言われるほどその道の人には常識になっている。
硬水で作る灘の「男酒」に対して広島の酒は「女酒」と呼ばれ、ふくよかでキメの細かい酒となっている。
水がおいしいから中国食品はこの地を創業の地に選んだ。
食品の加工・製造や飲料水の製造に適した環境だったのである。
中国食品は、各種加工食品と清涼飲料水の製造販売を中国地方一円に事業展開しており、大阪二部であるが株式も上場している中堅的会社である。独創的でユニークな食品や清涼飲料水を販売していることもあって、若者を中心に地場ではかなり名前の知れ渡った会社になっていた。
可部は小さな町である。あまりウロウロするとすぐに会社の者の目に留まりそうである。2人は人目を避けるように裏通りの古い喫茶店に入った。できるだけ目立たないように外からも見えない壁側の一番奥の席に腰を下ろした。
開店したばかりの喫茶店はまだ空気がよどんでいて、少し埃っぽい臭いがした。