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密談

更新 2016.03.03(作成 2005.02.21)

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第1章 転機 1.密談

いきなり怪しげなタイトルを持ち出して申し訳ないが、すべての始まりはここからだった。
8月に入ったばかりの夏のある日、平田浩之が会社に出勤しデスクに着くと同時に電話が鳴った。まるで待っていたかのようである。
昭和59年のこの年は冷夏ということもあって、カッと照りつくような太陽になかなかお目にかかれないが、それでもジメジメした蒸し暑い日が続いていた。
会社は8時半が始業時間であるが、一部の者を除いてほとんどの社員が8時過ぎにはそろっている。
一部の者というのは、会社での仕事やビジネスを労働時間の切り売りと考えている連中で、どこの会社にも、1人や2人は必ず居る手合いだ。
言われたことだけしかやらないし、仕事に対しての志や思い入れがないから熱意もやる気もない。自らの向上心も野心もない。
始業時間や就業時間を1分でも過ぎると大損したと考えている。だから、始業時間の30分も前に来るはずがない。いつもギリギリである。
こういう連中は人生を前向きには生きられない。いつも誰かから後ろを小突かれ叱られながら人生を送っている。寂しい人生だ、と平田は思っている。
しかし、本社の中枢で中心的役割を担っている者が時間の切り売りではいかにも寂しい。こういう人は、自ら「私は使われる人間です。どうぞ労働時間いっぱい思う存分使ってください」と宣言しているようなものである。
ところが人間関係にだけは殊更気を使い卑屈に媚び諂って生き、世渡りだけは上手い。
そうした一部の連中を除いては、大体30分前にはそろっている。
電話の主は営業部の豊岡信行からだった。
「豊岡だけど、チョット玄関のロビーまで来てくれんかのー」
豊岡は東北出身でたまに東北訛りが出るが、もう10年も広島に住んでいるせいか、すっかり広島弁になっている。
今までなら、用事があったり話をしたいときはお互いのデスクに行き、隣の椅子を占領して長話を決め込むのが通例だったが、最近は会社も社員もそんなのんきなことが許される余裕がなくなっていた。
豊岡は、本社営業部の中堅社員で、平田より2才年上の35才である。
平田は同じ本社建物内ではあるが製造部、つまり技術系の人間である。まるっきり分野の違う2人であったが、あるプロジェクトで一緒に仕事をして以来、豊岡の人を包むような心の広さと、どことなく育ちの良さをうかがわせるおっとりした雰囲気、それに仕事に対する考え方が好きになり、平田のほうから近づいていった。
平田は、豊岡と話をするとき気持ちがホッと安らぐのを感じる。
豊岡は顔立ちが良く人に優しいため、女にもよくもてた。いつも奥さん以外の彼女がいて、そのことがまた彼の面白い魅力になっている。
平田は、なんだか面倒なことになりそうだなと考えながらも、逆に面白い話かなというワクワクするような期待をしながら、たった今脱いだばかりの上着をもう一度手にしてロビーに行った。豊岡はすでに来ていた。待っていましたとばかり平田の腕を取り会社の外に連れ出した。
受付の女性社員が、そんな2人を何か滑稽なものでも見るかのようにニコニコしながら眺めている。もちろん顔馴染みである。
受付嬢こそ8時半からでもよさそうであるが、8時には出勤して受付に座っている。役員が出社してくるたびに立ってお辞儀をし、役員を出迎えるのである。彼らの虚栄心を満足させるだけのために8時に出勤するのである。
ビジネス上のお客さまは8時30分が始業時間と心得ているから、例外を除けばそんなに早く来ることはめったにない。だからムダである。
おまけに、この会社では秘書嬢まで玄関で待っている。恐らく秘書室長から指示されてマニュアル化されているのであろう。
最初にこの仕組みにした秘書室長は、どんな心根であっただろうか。受付を通るたびに平田は興味をそそられた。
お客さまがあるのならともかく、日ごろ経費のムダ使いや業務の効率化にうるさい役員だが、自らの足元は案外‘灯台下暗し’だなと思う。

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