更新 2016.06.29(作成 2016.02.05)
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第7章 新生 86.そして『正気堂々』
2015年、広島の街はカープの黒田選手の男気に沸いた。
元付けていた背番号15を何年間も空番にし、オフの度に秋波を送り続けた球団の熱意に黒田選手がその気になった。アメリカで契約金20億円のオファーを蹴ってまでも広島に帰ってきた。自分を育ててくれた球団と応援してくれたファンのためにもう一度貢献したい。カープを優勝させたい。それは黒田選手の夢であり志になった。
人が一番やる気になるのは期待される時だ。金や見返りはその次の問題だ。期待されるところが自分の居場所だ。そして、それが誰かのために役に立つ。それが生きがいだ。
サラリーマンとしていかに生きるか、この小説の一つのテーマだ。
平田は入社して間もないころに何人かの偉大な先達に巡り合い、貴重な教示を受けた。それが平田の人生に大きな影響を与え、多くの方と出会うファクターとなり、そしてその出会いが人生を破天荒で面白いものにした。
「志を持って仕事をしろ。そうすれば何倍もの充実した人生になる」と直属の常務に諭されたことを信条とし、常に何かを成したいと考えて生きてきた。そうすることで「これはこうすべきだ」「これはおかしい」と問題意識や改革意欲が研ぎ澄まされ、いつも前向きになることができた。
与えられた仕事は全て受けた。これは僕の仕事じゃありませんとか、今は忙しくてできません、などとはけして言わない。仕事ができることが嬉しかった。自分の仕事で会社全体がどんな反応をするか、それが醍醐味となり、仕事に没頭した。時間など気にならない。仕事が楽しかった。
自分へのある処遇から人事の仕組みに疑問を持ち、会社を変えたい、人事を変えたいと希求するようになった。公平で公明正大な人事が行われる人事の仕組みにしたい。そこから会社を変えたい。それが平田の生涯の志となった。
願望は届いた。
「お前の力が要る。人事に来て思いっきりやってくれ」
製造部門にいた平田に、当時の人事部長から直々に人事部への転勤命令が来た。
だが、まだ若かった平田は、志とは裏腹にあまりの重荷に初めは怖気が付いた。
「私には荷が重すぎます」と3日間行き渋ったが周りの人の「行くべき」との薦めで恐る恐る運命を受け入れた。
これは天佑だった。
自分の志を叶える場所が与えられたのだ。やるっきゃない。ここが人生の大きなターニングポイントとなった。
平田はがむしゃらに働いた。自分の願っていた仕事である。時間も金も気にならない。24時間、365日仕事に没頭した。
ただひたすら、一心不乱に仕事のことを思い続けると、思わぬところでいいアイデアや問題解決の糸口が浮かぶことがある。平田も何度か通勤電車や風呂の湯舟で悩んでいた問題の解決のアイデアを思い付いたことがある。それは恋する人間が恋人のことを常に思うのと同じだ。
仕事を好きになれとはこういうことだ。そして何度も何度も振り返れ。新たな思い付きや気付きが必ずある。そうして仕事が練り上げられていく。これでもかと言うくらい磨き上げろ。
「どんな仕事にも全力を注げ」
力の出し惜しみは力が無いのと同じことだ。
平田はまず人事の仕組み、人事制度を改革し、公明正大な運営から人事を変えようと考えた。
人事制度の根幹は評価制度だ。目標管理制度を導入して公正を期す。これの運営には殊更情熱を注いだ。社長から役員、管理職、一般職まで目標管理の研修を何度も仕掛け、オープンで公明正大な運用を根付かせた。そこから昇進昇格、異動配転、昇給、賞与の仕組みの変革に繋げようと考えた。評価制度を変えることで社員の意識も、主体的でチャレンジ精神豊かなものに変えたかった。
評価制度は、採点をするところではない。期待をかけ、人をその気にさせるところだ。
いい加減な目標設定や面談で済ます管理職には厳しい苦言と修正を迫った。その評価で部下の一生が決まることだってあるのだ。
そのため営業所の管理職から生意気だ、鼻持ちならぬ奴とたびたび誹謗された。それでも平田はひるまなかった。会社を良くしたい、その一心があるからだ。
「どんな仕事にも心がある」
所長曰く「部下たちには気持ちよくして売ってもらわにゃいかんから」
そんな諂いで部下が育つわけがない。売ってもらった結果でこそ評価を付けてほしい。その隔たりが心根の違いだ。
優秀な人はどんな制度下でも頑張る。優秀とそうでない人の違いは、頑張ることができるかできないかの差だ。それだけの違いだ。
ただ、優秀な人も心がけ、志がなければ成すところは淋しいものになろう。志をどう持つかで人生は大きく違ってくる。
だが時として、どんなに頑張っていても運命のいたずらは人生の歯車を狂わせてしまうことがある。巡り合わせのミスマッチで理不尽な処遇を託つこともある。ただそんなときでも、決して腐ってはならない。
「腐ったりんごは誰も拾わない」
人生に1度や2度、いつか必ず陽の当たるときが来る。そのときのために力を蓄えておくことだ。一生の間に1度か2度だ。そう多くはないが、必ずチャンスが巡ってくる。そのときのために力を蓄えておくことだ。人は見ている。見ている人がいつか拾ってくれる。アピールを含め、拾われるための努力はいる。
「チャンスは自分の手で掴め」とはこのことだ。せっかくのチャンスも力がなければ逃げていく。力を蓄える努力が嫌だというのなら何をか言わんやである。そもそも何かを成したいという志が欠落している。
努力は、何かを成したいという覚悟の裏打ちがなければ本物にはならない。
どうせ頑張るのなら「一芸に秀でよ」。財務、法務、営業、技術……、なんでもいい。趣味でもいい。一芸に秀でよ。必ず出番が来る。潰しも利く。
挫折や失敗があるから人生は面白い。
「仕事は、責任だ」
あなたの一挙手一投足、あなたの心が次の人(未来)に作用する。あなたの次の工程かもしれない。会社の将来かもしれない。いつかわが社の製品を買ってくれる今は見えないお客様かもしれない。その人たちにどう責任を負うかが仕事だ。
そして、その責任を全うしたいと思う心がある。担当者にも、組織にも、トップにも。
担当者の心がこもった仕事をトップが認めたとき、その心はもはや組織全体の心となる。夢はいつも一人からだが、組織の顔になることもある。
平田はその心を堂々と打ち上げ、人事の顔になった。
「人事は会社の心だ」
その心根が間違っていたら組織が浄化する。だからと言って、浄化されないように媚び諂うのではなく心根をしっかり鍛錬することだ。
その心を知らずして仕事をわかったと思ってはならない。ハウ・ツーだけを理解しても本当の仕事はわかっていない。
「なぜこれをやっているのか」「なぜこうしているのか」「何のためか」、そして、「これをやりたい」と。どんな仕事にも必ず心が込められている。その心を理解した時が仕事がわかった時だ。
その責任と心を忘れて目先の利潤や安易なその場しのぎを選び、責任を放棄したため後に大きな問題となる事件があまりに多い。
卑近なところでは、手抜き杭打ち、不正会計処理、免震ゴムの性能偽り、欠陥エアーバック、排ガス偽装、有機肥料の成分偽装、そして燃費性能偽装、などなど数え上げればきりがない。
これらは全て社会への重大な裏切りである。時には関係者の財産や生命までも危うくすることだってある。
「天網恢恢疎にして漏らさず」悪事はかならず露呈する。発覚したそのときには、会社の屋台骨を揺るがす大問題となる。その代償は計り知れない。
目先の業績数値は欲しいかもしれないが、そこは耐えて乗り越える努力こそが強く逞しい組織を作り、成長の原動力となるのではないか。危機に直面したときこそ本当の経営力が問われる時だ。責任という点で世間を欺いたとき、そのしっぺ返しは何十倍、何百倍にもなって返ってくる。ごまかした利潤など遥かに及ばない。
それらも元を質せば、個人の立場や利益を守るためと言えやしないか。会社のためと言いながら、社長個人の権威や面子を守るためではなかったか。どの事件もそんな腐臭が鼻を突く。志とは程遠い。こう考えるのは穿ちすぎだろうか。
部下たちはどんなに悔しい思いをしただろう。毎日歯を食いしばって頑張っている社員たちの心に、為政者は思いを馳せるべきだ。
不正に抵抗した社員もいたはずだ。心を鬼にして諫言してくれる社員こそ宝だ。
「正気堂々」
社長の樋口が残していった遺訓である。
何かを成し遂げようという志があれば、自らの信念に照らし、正しい心を持って堂々と進め、ということである。そこには卑しい心根の入る余地はない。
そのとき樋口はこう言っている。
「欲を持ちなさい。欲が磨かれて志になる。欲があるから頑張れる。欲があるから壁にもぶつかる。そして痛い思いをしながら志をつかみとっていくんだ。それが人生というものだ。つらいかもしれんが運命を引き受けるしかない。それが生きるということだ」
欲とは夢のことだ。それ以外に解釈はない。
第6章81節が本小説の要旨だ。
更にこんなことも。
「君がやらなければ、君を引き上げた者にとって一番信頼していた部下に裏切られることになるんだぞ。任せた人にも志があってそれを君に託している。それを裏切るということは、その人の志をも踏みにじることになるんだぞ。君がいいと思えばこそ任せている。それが君を任じた上の者の心だ。君を任じた人の心を君も信じて思い切ってやりなさい」
制度改革の難しさに打ちひしがれていた平田を勇気付ける一言だった。
「正気堂々」
この小説を貫いている背骨だ。
これで物語は終わります。長い間のご愛読ありがとうございました。
2005年2月22日に始まって実に11年もの歳月が経ちました。最初は2、3年と思っていましたが、思いのほか長くなってしまいました。読み疲れやダレも出てきたのではないでしょうか。
ビジネスの最前線で日夜奮闘されている皆様の何かの参考になればと思って書き始めましたが、昨今の若者には馴染まない展開かもしれません。そういう意味では、この物語は、現今の若者の生き方に対する私からのある種のアンチテーゼかもしれません。
自分の言いたいことの万分の1も言い得ていないように思います。皆様の読解力と理解力で少しでもお汲み取りくださいまして、何かの資としていただくものがございましたら幸せの限りでございます。
私の体験をモチーフにフィクションしておりますが、けしてデフォルメではなく事実は小説より奇なりです。人間の織りなすドラマは、更に興趣深く、醍醐味のあるファクトの連続でした。ただ、拙筆、稚拙な構文で上手く言い表せておりません。どうぞ、皆様の想像力でもっと豊かにドラマを盛り上げていただければ幸せです。
私は、自分の作った制度が上手く機能し会社の礎となればそれが自分の生きた証しとなると思っていましたが、それは会社の合併、糾合で見事に瓦解してしまいました。しかし、この手記をどなたか1人でも読んでいただけたならば、私の人生も無ではなかったと確信することができます。
皆様の人生が大にして成すところあらんことを。
最後に、私のような浅学非才の者にこのような機会を与えていただいたナビゲート社の伊藤氏に心から感謝申し上げます。また、誤字脱字の修正、文の構成、表現のチェック、論理の展開など幅広く校正していただいたり、サイトの運営、管理していただきましたスタッフの皆さんに心から御礼を申し上げます。
また、寄稿するにあたりヒントやアドバイスなど、陰ながら応援していただいた全ての皆様に心から感謝申し上げて筆を置きます。
余談ですが、カラスに襲撃された我が家の車庫のツバメたちは、巣を補修し2度目の営巣の末、見事に4羽の子ツバメを育て上げました。ツバメは2度も産卵することができるのでしょうかね。
ツバメを襲撃したギャングカラスは、車庫入り口に釣り糸を張りそれに黒いビニールのごみ袋をぶら下げると仲間が罠に捕まったと錯覚して寄り付かなくなりました。
新たな発見もありました。ツバメはツガイの2羽だけで子育てをしているのではなく、5、6羽の集団で子育てをしていました。1羽が餌を与えていると次の1羽が車庫の上で旋回しながら待っています。多いときは3羽4羽がひっきりなしに餌を運んでいます。2羽3羽が車庫の床に降りて休んでいることもありました。
推測ですが、この成鳥たちは一緒に育った親鳥の兄弟か、はたまた親鳥が昨年育てた子供たちか。ならば今年生まれたツバメの兄姉であり、前者はおじさんおばさんということになります。2度目の産卵はこの大人たちがカバーしたのかもしれません。いずれにせよグループ作業でした。
巣立ちを促す親鳥のリードも見事でした。まず近くの電線で餌をくわえてここまでおいでをします。全羽が来るまで待っています。ひな鳥には大きな試練です。
また10m離れたところにとまり直します。一番最後の子に餌をやりながら少しずつ距離が長くなります。他の成鳥は「こうして飛ぶんだよ」と言わんばかりにスイスイとデモフライトを繰り返していました。
ついに姿が見えなくなり帰ってきませんでした。南方へ帰るための野営の練習や飛翔力を養っているのでしょうか。今は、来年また無事戻ってきてくれることが楽しみです。
毎日の糞の掃除は大変でしたが、孫たちやご近所までが「よかったね」と無邪気に喜んでいたのは、ほのぼのとした気持ちになりました。
悠久の昔から変わらぬ慈愛に満ちた子育てです。そして試練と……