更新 2016.01.25(作成 2016.01.25)
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第7章 新生 85.憧れ
「平田さん、うちに来ませんか」
「ハァッ、なに」
平田は、堤が何を言っているのか俄かにはのみ込めなかった。
「うちに来ていただけませんか」堤は言い直した。
「冗談じゃない。俺みたいなどっちかというとアウトローのような人間が、品行方正が服を着ているような銀行で勤まるわけがない。わが社ですらはみ出し者だぜ。第一そんなことができるもんか」
平田は笑いながら手の甲で振り払った。あまりの唐突なことに思わず口のものを吹き出しそうにさえなった。
「いえ、平田さんのような人を探していたんです」
「うん?どういうこと」
平田はまだ笑いが収まらなかった。
「銀行っていうのは金の計算ばかりをしているんじゃないんです。そういう意味では私たちも銀行業務は務まりません」
平田は意味がわからず目を見開いた。
「銀行というところは、特に我々のようなメガバンクと言われるところはものすごく懐が深いです。凡そ日本にあるあらゆる事業分野に手を染めています。その一つひとつに専門家チームのような組織があるんです。どちらかというと事業家の集団のような組織です」
平田は初めて聞く銀行の内部実態の話が面白かった。
「私たちもその一つに過ぎません。法人事業部門の年金信託部の年金コンサルタントチームです。行内には『部』と名前の付くセクションだけでも150くらいあります。とても覚えきれません。銀行業務の基本はリテールですがそのイメージだけが強すぎるのです。平田さんのイメージもこの辺にあると思いますが、そんな所に平田さんをお迎えしようというわけじゃありません。その裏の事業は有象無象です」
平田は“一体俺をどうしようというのだろう”と大いに興味をそそられながら堤の話を待った。
「自分で言うのも口幅ったいですが私たちは年金のプロです。これに関しては誰にも負けないと自負しています。しかし、今のコンサルのスタイルは本当のコンサルじゃないと思っています」
「どうしてですか」
平田は藤井らの手法と比較して“そのとおりだ”とわかっていたが彼らの考えを最後まで聞きたかった。
「平田さんがいつも仰っているように、年金は人事システムの一部に過ぎません。私たちはがむしゃらにポイント制退職金を導入したり、今は確定拠出とか新会計基準とかに取り組んでいますが、人事システムについての確たるポリシーがあるわけじゃありません。ただ、法的対応と財務的負担軽減のために、やるしかないものを導入コンサルしているだけなのです」
「うん……」
平田は黙って聞いた。
「ですが、この仕事は一通りの導入が済みますとニーズがなくなります。そこで私たちも、年金コンサルじゃなくて人事コンサルとしてこの事業を生まれ変わらせないと将来はないと気が付いたのです」
「うん。なるほど」
「それぞれの会社に合った人事の在り方を考える。そして人事制度をコンサルする。その仕組みの一部として年金制度を提案する。そういうスタイルに変えたいんです」
「なるほどね。それが正しい方向性やろね」
「これに気づかせてくれたのが平田さんです」
「あっ、そう」
平田は軽く受け流したが、元々は藤井の垂教だ。
「はい。だから私たちが人事システムに精通してお客様の人事システム全体をアレンジ再構築、リニューアルしていく。その上で年金を考えていく。そういうコンサルスタイルに切り替えたいのです。そうしないと将来を見据えたとき、私たちの仕事はコンサル事業として成り立ちません」
平田は堤の言うことをそのとおりだとうなずきながら聞いた。
「それで平田さんに人事システム構築のノウハウを私たちコンサルチーム内に伝授していただきたいのです」
「なるほど、そういうことか」
平田はやっと堤の言っていることが呑み込めた。
“なるほど。そういう業務もあるのか。そうやっていずれは事業として独立していくのだろうな”と彼らの事業欲に感心した。
“だから銀行は関連会社のすそ野が広いのか”
「そんなわけで、銀行ってところはそこらの中小企業のおっちゃんみたいな人間の集まりなんです。私たちを含めてリテール業務と全く関係ありません。だから平田さんみたいな侍のような人がいいんです。ひ弱な学者じゃ務まりません。ぜひお願いします」
平田は銀行の奥深さに驚かされた。まるで日本産業の縮図のようだ。
がしかし、だからといって自分がその任に務まるのか。それは悩ましいものがあった。相手が大きすぎる。
「私たちのコンサルは年金改革のブームが一段落したらニーズは過ぎ去ります。その時、根本から人事を見直す人事コンサルが必ず必要になります。グローバル化はますます進展します。そうした時代にマッチした制度構築の人事コンサルこそが私たち年金コンサルチームの生き残る道なんです」
「なるほどね。あんたの狙いというか志というか、思い描いていることはわかった。しかし、俺ごときが出来るかえ」
「できます。平田さんならできます。平田さんは言ったじゃないですか。夢とこだわりがなければいい仕事はできないって。それが一つの仕事を成し遂げるって」
「そんなこと言ったっけ」
全く記憶になかったが、これも誰かの受け売りながら平田は信条として持ち続けていた。
「はい。平田さんのその姿勢に惚れたんです。そして自分らしく、純粋に人事制度と向き合ってみたいという夢もこだわりも存分に発揮してください。それが私たちの願いともマッチするんです。一つの仕事が成し遂げられたとき、私たちの夢も成就します。ぜひ手伝ってください」
平田はこの話に大いに心が揺れた。自分が希求していた会社像の、これ以上ないという理想的な仕事ではないか。
「処遇は、○○の肩書を用意します。報酬は平田さんと人事部の交渉になります。欲しいだけ言っていただいてけっこうです。賃金交渉は平田さんの得意とするところでしょう」
堤は、最後のところは冗談ぽく笑いながら言った。
「ちょっと待ってくれ。俺はまだ行くとも言っていないし、そんな出来すぎた話は俄かには信じられないよ」
「あっ、すみません。つい熱が入りすぎて。ただ、平田さんがまだお勤めなさるんならお誘いはしません。御社に対して人材を引き抜くような不義理はできませんから。しかし、もう辞めると意思表示されているんなら他に行かれる前にと思ったものですから、つい餌で釣るような言い方になってしまってすみません。でもこれは本当なんです」
「だが、そんな安請け合いしていいのかい」
「大丈夫です。うちの部長も大いに乗り気ですし、肩書も報酬のボーダーも了解はもらっているんです。うちの部長は御存知ですよね」
「うん。何度か会っている。本当に、そうなの」
あまりの出来すぎた話に平田はただただ驚くばかりだった。
“こんな大らかな心の会社もあるのか。事業部にこれだけの権限を持たせ、欲しい人間はどこからでも採る。どこかの会社とは大違いだ”
「今日、梶原を同席させたのもその証人のためです。一応形だけの人事との面談がありますが、そこで思いっきり条件交渉してください。もし人事がごねたら、私と話がついていると言ってください。こうこうこれだけの約束だったと。これは私の平田さんへの憧れです」