更新 2016.01.06(作成 2016.01.06)
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第7章 新生 83.なるようになる
近畿フーズと、額面3千万円で揃えたセカンドライフ支援制度が出来上がり、速やかに役員会の審議を経て即座に公募に移された。内容は、前年度実施したものと全く変わらなかった。
金額も、対象者も、転職支援も、年金化も全く同じだった。再設計する時間もなく設計ミスがあっても大変だ。コピーするしか手はなかった。
内容が昨年度と同じということと、近畿との申し合わせ事項であるということで、審議もアッと言う間に通過した。
しかし、利用する者にはそのほうがありがたかった。前年度との損得感もなく受け入れやすい上、前年度利用者の利用実績とその後の生活実態を見ることができて安心感があった。
ただ、近畿フーズは付帯制度を検討する余裕がなく金額だけの支援だ。それでも近畿フーズでは初めてのことなのでそれはそれで大きなインパクトがあり、反響は大きかった。
応募受付は3月3日、4日であった。
平田は、坂本と新田それに丸山以外にはまだ誰にも言ってなかったが椿には言っておかなければなるまいと思い、前日の夕方それとなく伝えることにした。他の人には応募受理が確定した後でいいと思った。
「明日のセカンドライフに応募しますので、よろしくお願いします」
椿は、咄嗟には呑み込めなかったようで目を丸くした。
しかし、それ以上の話はないので平田は軽く一礼して自席に戻った。
椿は、事態の重大さを呑み込んだのか慌てて部屋を出て行った。
椿にとって平田は大きすぎる存在であり自分で処理するには持て余す案件だ。説得のしようもなく新田に報連相するしかなかった。
平田がいなくなれば合併事務は誰がやるのか。その責任は全て自分に掛かってくる。平田が辞めるなんて思いもよらなかったから驚天動地だ。
平田はその間に、明日の準備を柴田に念押しして帰ってしまった。
戻ってきた椿の顔を見るのもいやだし、新田に話を蒸し返されるのも嫌だった。
椿は慌てて新田の専務室に飛び込んで行き、
「専務、大変なことになりました」と興奮気味に報告した。
「なんですか」
「実はヒーさんが辞めると言っています。明日のセカンドライフ支援制度に応募するそうです」
「うん。実は俺も弱ってるんだよ」
「もうご存知なんですか」
椿は、新田が知っていながら自分に言ってくれなかったことに少し気分を害した。
「それでどうするんですか」
つっけんどんな言い方に変わり、熱も急激に冷めた。もはや完全に自分マターではないようだ。
「うーん。ちょっと平田を呼んでください」
椿はドアを開けたまま部屋を出て、すぐ前の社員の電話から平田の番号を回した。
電話には人事の女性社員が出た。
「平田さんはもうお帰りになりましたが」
「もう帰ったのか。えらい早いな」
愚痴ともつかぬ独り言を呟きながら、そのまま新田に伝えた。
「そうか。あんたの動きが完全に読まれてるな。しょうがないよ」
セカンドライフの受け付け対応のスタッフは前回と同じメンバーだ。どの顔も前回よりずっと余裕があった。土曜日ということもあり、カジュアルな服装が一層彼らをリラックスさせていた。
平田もいつものように出勤した。
椿も、昨日のハトが豆鉄砲を食らったような顔はすっかり落ち着き、いつもの顔に戻っていた。本来なら平田に何らかのアクションがあるはずだが何もない。新田から「どうしょうもない」と言われて、新田さえ承知しているのなら後はどうなろうと自分の責任ではない。そう考えれば気は楽だ。平田へのアプローチは何もなかった。
平田は、机で待機しているとなんだか照れ臭くってムズムズした。目の前の申込受付用紙を見ながら、その一番上の欄にもうすぐ自分の名前を記すことになるのかと思うと口角が上がってきた。
本来なら、申し込んでいいか、本当に間違っていないかなどと逡巡する心の迷いがあるはずなのに、なんだかワクワクするばかりだった。
9時になった。
早速、あっちこっちで電話が鳴り始めた。平田は、電話は他の者に任せて黙って自分の所属と名前を申込用紙に書き込んだ。ボールペンを置き、もう一度確認して“よし”と心の中で呟いた。
これで全てが終わった。力の入っていた肩がスーッと軽くなった。
もう一人だけ電話対応を済ませると用紙を伏せ、談話室にコーヒーを飲みに下りた。
コーヒーを片手にテーブルに座ると大きなため息が自然と出た。窓越しに遠くの景色を眺めながら虚無の心境になった。今の仕事の先行きも、次の仕事の心配も、今までの郷愁も何も浮かばなかった。
セカンドライフがあるということは、しばらくは支援制度の年金と失業保険がもらえるということであり、生活は何も心配がない。その間に次の仕事を探せばいい。仮に給与が半額になっても支援制度の年金を足せばほぼ現在と同じ水準だ。好きな仕事が出来る分だけ幸せだ。
“どんな仕事がいいか。やはり人事しかないがどの様にするか”など、まるで夢見心地だ。
そんなことをしている間に、平田の用紙も誰かが回収してまとめたようだ。そこでスタッフ全員の知るところとなった。
平田が部屋に戻ると柴田が早速問い詰めてきた。
「平田さん辞めるんですか」
平田が照れ笑いをしながら曖昧にうなずくと、
「嘘でしょう。ダメですよ」と嗜めてきた。
他の者も口々に「何でですか」、「ダメですよ」と言い寄ってきた。
「うん。まあ、いろいろ考えた末のことです」
「会社はどうなるんですか。人事はどうするんですか」
それでも平田は笑いながら、
「あんたらがいるじゃないか。大丈夫。なるようにしかならないから」と諭した。
受付が終わった1週間後、F信託銀行年金信託部業務推進室コンサルティング第2チーム長の堤裕而がやってきた。
「平田さん、2人だけでお話がしたいんですが今夜空いてますか」
「ああ、いいよ」
「それじゃ、7時にわが社の広島支店の表玄関でお待ちしております」
「わかりました」
堤が一体何の話だろう。支援制度の年金化で何かトラブったか。
いろいろ思いを巡らせたが聞いてみないことには、それこそ話にならない。