更新 2015.07.03(作成 2015.07.03)
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第7章 新生 65.募集開始
セカンドライフ支援制度の募集開始にあたって、先着順にするかどうかで内部でもめた。
単純には、早い者順に受け付けることで一見公平さが担保されるように思われるが、電話回線が満杯だったり一度話し中だったら再度ダイヤルし直さなければならないための遅れが出たり、そのための運不運はどうしても付きまとう。ほんの数秒の遅れは、本当の意味の公平といえるのか。
そんなことで当初の考えどおり一旦は全て受け付けて、どれだけオーバーするかを見極めたのち、対応を考えることになった。
人生の大事な岐路だ。焦って申し込むのではなく、落ち着いてじっくり考えて応募してほしい。
募集開始は平成10年(1998年)11月21〜22日の2日間、朝9時から夕方の5時までとなった。勤労感謝の祝日で3連休だが、2日間をとった。あとの1日はクールダウンの日に充ててもいい。キャンセルする気になるかもしれない。ちょうど賞与交渉も始まるときであり、先延ばしも難しかった。
連休中は、いろいろな行事や旅行などの予定もあるだろうから他の日程にするべきじゃないか、と言う者もいた。だが、人生の岐路に立って一大決心のときに旅行などするだろうか。仮にそこまで割り切っている者ならば旅先からでも電話の1本くらい入れられる。予定どおり実施された。
当日、人事部の係長以上は全員出勤し電話対応に備えた。
誰が申し込んだか漏れないようにするため、人事部の部屋の入り口には「立ち入り禁止」の張り紙が貼られた。中には用もないのに部屋に入ってきて、ニヤニヤとニヤケ顔で耳目を欹てる奴もいる。電話対応に集中するため、いらぬ神経は使いたくない。
また、いたずらやミスを防ぐために申し込み者には後日、人事部から自宅宛てに確認の書類を送ることになっている。職場に電話や書類を送ったら、人事部からというだけでわかってしまう。
そのようなことを説明するための待機だ。
9時の時刻が迫るにつれて、人事部の部屋に徐々に緊張が高まってきた。口数が少なくなり、時計の針ばかりを睨んでいる。平田も胸の鼓動が高くなるのを覚えた。
気の早い者が9時少し前に電話を掛けてきた。
「はい。人事部です」
若い係長が勇んで受話器を取った。
9時前なので、「セカンドライフ受付です」とは言わなかった。
「○○営業所の誰べえです。セカンドライフを申し込みたいのですが」
声は聞こえないがそんな雰囲気が部屋中に広がる。
係長は受けていいかの確認のため、こちらを振り返った。
平田は大きくうなずいた。どうせ全員受け付けるのだ。少々早い遅いは関係ない。時間設定は受付対応のための便宜的設定にすぎない。
「えらい早いですね。よく考えられましたか」
「ええ、もう随分前から決めていたことなんです。今日はこれからちょっと出かけなければならない用事があるもので早めに電話したんですが、だめですか」
「いえ、大丈夫です。それじゃもう一度所属とお名前をお願いします」
「○○営業所の誰べえです」
「わかりました。それでは、これからの手続きについて……」
こうして最初の申し込みが完了した。
「誰だ」
待機していた担当者全員が同時に質問を浴びせた。
「○○営業所の誰だれさんです」
「うん、あいつかー」
諦めなのか、納得なのか、どちらともとれる嘆息が漏れた。
最初の受付が終わると硬かった部屋の空気が一気に和らいだ。
その後も混乱なく受け付けは進んだ。
中には、「エッ。あんたがか」という応対者の驚嘆の声が聞こえることもあった。相手も照れくさそうに答えているのがうかがい知れる。しかし、説得するのが仕事ではない。淡々と受け付けは進んだ。
初日を終わって、応募者は27人だった。それもほぼ午前中で終わり、午後は疎らな申込みだった。
「これなら明日は全員は要らないな。明日は管理職だけで対応しよう」
部長の椿が宣言した。経費節減と一般職を休日に出勤させる申し訳なさからだ。
5時になると申し込み受付を持ち寄り、最終的確認をして初日を終えた。部署別や役職位別などまとめるのは受付が全て終わってからだ。
平田を指名した申し込みが回ってきた。
「はい。代わりました。平田です」
「△△です」
「はい。わかります」
声で相手が誰だか認識できるほどの知る辺で、51才の係長だ。ただ、まだ何の要件かは聞いていない。
「実は迷っているんです」
「はい。誰でもそうですよ」
すぐに核心めいた話になってきた。
「このまま会社にいてもいいことはなさそうだし、転職しようかなと思っているんですが収入は減るでしょう。どうしたらいいか迷っているんですよ」
転職で悩む一番多いパターンだ。
仕事の喜び、やりがい、楽しみと収入がともに備わっていたら最高に幸せだが、どちらかしか取れないとなった時が一番悩ましい。
「人生の楽園」という西田敏行氏のテレビ番組がある。内容は、ひと仕事やり遂げた中高年が、それまで我慢してきた自分の喜びや楽しみを第2の人生に求めてやりたいことに挑戦し、大きな喜びを手にする人々の紹介だ。その転機をいつにするか。リスクとリターンを天秤に測りながらその機会を見極めなければならない。何かを得るために何かを捨てなければならない、それもまた現実だ。