更新 2013.11.15(作成 2013.11.15)
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第7章 新生 6.読めた
「買うんですか」
「そうです。多角化の一環と考えてもらっていいでしょう」
「なぜ、私が」
事業部門でない新田は、素朴な疑問が思わず衝いて出た。
「うん。まだ誰が何を担当するかわかりませんし、信頼できるのは貴方くらいしかいないから頼んでいるのです。なにかいけませんか」
「いえ。とんでもありません。ただあまりに突然だったもので」
新田も信頼できると言われて、悪い気はしなかった。
こんなとき新田は、けして大仰に驚いたり、慌てたり、感動したりしない。あくまでも冷静沈着で、クールだ。
「“銀嶺”という蔵元なんですが、跡継ぎが奔放で販売店からの信頼もなくして経営が成り立たなくなっているようです。杜氏たちも帰ってしまって今はまったく休眠しているらしい。税の支払いにも窮しているらしく、うまくやれば2億くらいまで叩けるかもしれません。予算は3億までです。それで交渉してもらえませんか」
竹之内は樋口からのレクチャーどおり、新田に伝えた。
「そうですか。しかし、酒造りに乗り出すんですか」
酒造りというのは酒造免許がいる。わが社がいきなり始めても許可がおりない。それで酒造免許を持っている蔵元をそっくり買い取るという方法は確かにある。
とはいえ、酒造事業を運営するノウハウは全くないではないか。杜氏たちが協力してくれる保障もない。一度傷付いた販売店との信頼関係もどこまで回復するのか見込みはない。
まだ新体制も整わないうちに、竹之内はなぜこんなことを唐突に言い出したのか、新田は不可解でしょうがなかった。
しかし、そこは新田流。すばやく頭を回転させ、竹之内の胸中を必死で読み取った。下手をすると自分で自分の墓穴を掘ることにもなりかねない危険も孕んでいる。
「わが社は食品会社です。酒造りを始めても不思議ではない。それに、事業というのは成功すればそれはそれで結構ですが、必ずしも成功するためだけが目的とはかぎりません。いろんな目的や思惑があって興すものもあります。2億や3億の金は目的次第では十分投資に値するかもしれません。今のわが社にはなんでもない金ですよ」
“読めた”新田は胸の内で手を打った。
頭のいい新田は、竹之内の言葉使いの中にどんな思惑が隠されているのか、およその察しがついた。しかし、そこには手を差し込めない。
“役員の送り出し先だ。しかも、成功する見込みがないにもかかわらず、ここまで金をつぎ込んでも確保したいとなれば三役以上であることは間違いない”
ただ、残った疑問は「なぜ自分なのか」である。その疑問は深い。
「まあ、金が絡む問題だから財務担当の貴方にお願いするのです。スタッフはそろっていますか」
竹之内は、次期社長の要請を新田が断わるわけがないと決め打ちで尋ねてきた。
「それは、大丈夫です」
買収した酒造会社を継続して運営するとなるとそれなりに陣容を整えなければならないが、買収するためだけの人材なら揃っている。営業畑をズッと歩いてきて交渉事には経験十分な総務部長や、法律に詳しい法務課長もいる。
だが、そんなことだけで社内のルールを飛び越えて自分に振ってくるだろうか。まだなにか重大な意味が隠されている。
「ただ、これは急ぎます」
“樋口は引退する。それに伴って役員を一新するための受け皿作りだ。ただ、そのためには数が足りない。常務は自分を含めて4人だ。銀嶺を手に入れたとしてもあと1社足りない“
ということは誰かが残るのか、それとも引退させられるのか。
中国食品には子会社と呼べる関係会社が2社ある。
中国ベンディングオペレーション(株)は、自動販売機を展開して、ディーラーを通さずに直接販売するオペレーション会社である。
日本冷機テック(株)は、その自動販売機をメンテナンスしたりロケーションに設置したりする技術系会社である。
いずれも社内の1セクションであったものを、樋口が分社して立ち上げた。
他にも、運送会社など以前からアイデアはあったが協力関係にある既存の運送会社との利権が絡んで実現していない。
運送業界というのは、ある企業の製品運送を自社のみで完全に独占してしまうということは滅多にない。製品輸送は必ず繁閑がある。その山が自社能力を超えたとき仲間の業者に助けてもらう必用がある。そのためメイン業者は、下請け、孫請けとして、あるいは輸送協力会などを作って他業者との関係を維持していなければならない。
困ったときだけ頼んでも誰も助けてはくれないから、日ごろから関係維持料としてある程度の仕事を出し続ける必要がある。大体メインが5割前後のシェアを取り、残りを傘下の数社で分け合うのが一般的関係だ。
こうして輸送業者は依頼企業の製品を安定的に搬送する仕組みを作っている。ガッチリとスクラムを組むことで依頼元企業の圧力にも耐えることができるのだ。
その利権構造にいきなり割って入ることは樋口でもリスキーだった。自社の運送会社を作り、この協力会の一員として傘下に入れることは可能だったが、幾多のステークホールダーの前に足踏みしたままだ。
4常務を総入れ替えするとしたら、銀嶺を手に入れたとしても都合3社で1社足りない。
誰かが残るのか、それとも引退か、疑問は深まる。
「しかし、役員会の手続きもありますが」
新田はフル回転の頭に時間稼ぎのありきたりな質問を浴びせた。
「そんなものは私と樋口さんがなんとでもします」
竹之内は面倒くさそうに素っ気なく突き返した。
確かにそのとおりである。元々どうでもいい質問だった。
だがその一言は、樋口と十分協議され、全てに了解済みであることを意味している。恐らく誰にやらせるかも決まっているのだろう。それがわかっただけでも無駄な質問ではなかった。
新田は勝手に推量した竹之内の思惑を確認したい衝動をグッと喉の奥に押し込み、武者震いするような緊張をこらえた。
「わかりました。早速手を打ちます」
「うん。よろしく頼みます」
竹之内は緊張を緩めた。
「まあ、これからもよろしく頼みますよ」
と、嬉しそうに笑ってお茶をすすった。
竹之内のこの笑顔で新田は救われた。