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救われた

更新 2016.06.16(作成 2014.04.15)

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第7章 新生 21.救われた

一方の平田も、「椿さんと話しておいたから」と聞かされても、それでも素直に喜ぶ気にはなれなかった。向うから拒否されたのだ。拒否の開錠はまだなされていないではないか。平田は平田でそんな意地があった。
それに、新田に再び火を点けられたとはいえ一度消えた闘志がそう簡単に蘇生するものではない。青く冴えわたった冬の三日月のように、どこか寒々とした心は冷やかに椿の出方をうかがうだけで、自ら目の前の状況を打ち破ろうとはしなかった。そんな逞しさはまだ回復していない。
新田には今までどおりにやってくれと言われたものの、とても自分から椿の許可をもらいに行く気にはなれなかった。
一度傷ついた心はそう簡単に快癒するものではないのだ。周りの温かい見守りの中で少しずつ生気を取り戻すものだ。
それに否定したのは椿のほうだ。椿からオファーがなければ自分から「やります」とは言えないではないか。こちらもやはり、「あんたが出るからおかしなことになる」という一言が、大きな楔のように胸の奥深く突き刺さっていた。
2人の意地と意地が対峙したまま更に1週間が無為に過ぎた。
椿も平田も、早くなんとか言ってきてくれよと、相手のノックを待っているのだが……。
こうして考えると、人の心の問題に対して人事は無力である。発症して初めてカウンセリングや休職、療養制度など適用することができるだけで、人の心には踏み込めない。面接制度などで対話の機会はあるが、相談の解決よりも追い込みのほうが強くなりすぎているようだ。責任を負う面談者としては当然そうなる。
追い込まれるほうも弱みを見せまいと必死で踏ん張り耐えようとするからついには限界点を超えてしまう。

しかし、ここが平田の運のいいところだ。6月は、ちょうど目標管理の中間チェック時期に当たる。いやが上にも上司と部下の面談が入る。
目標は年初に設定してあり、管理職以上は社内ネット上で全社にオーソライズされている。
椿も、丸山から人事部長としての目標を引きついでいた。多少、自分なりのオリジナリティを加えたとしても大きく変更することはできない。個々人の目標は、会社の経営計画、経営方針を受けて、部の運営計画、運営方針へと連鎖し、末端の一社員まで連綿と連なっているのだ。
前年度に経営企画室のリードで、予算設定をともなった経営計画、経営方針が役員会で承認され、部単位レベルでの大きな経営目標が設定されている。
各部はその目標を達成するために部の運営計画や方針を主要メンバーで練り上げる。それがほぼ部長の目標となる。
全社の目標がそうした連鎖で連なっているのだ。一部署の中でも同じことで、誰かが遅れれば部の目標は達成されない。
6月はその目標の中間チェックの時期である。
平田は通常業務の一環として、「目標の中間チェックの実施について」と題する全社向け案内文を作成し、椿の印鑑をもらいにいった。これはルーチンワークであり、特に何かエネルギーを要することではなかった。
しかし、こうした通常業務でさえ最近は平田の手から離れていくことが度々あった。平田自身も意識して仕事を下に下ろすようにしていたから特に違和感はなかったが、無断で自分をスルーするやり方には腹が立っていた。
ところが、今回は誰も手をつけようとしない。椿も人事課長も気づかぬ振りをしていた。新制度に移って初めての目標管理だからである。どんなリスクや不具合が隠れているかわからない。それを見越して介入してこないのだ。平田はそんな姑息さが癪に障っていた。
しかし平田は、問題が起きれば対処するだけよ。瑕疵があれば修正すればいいじゃないかと、開き直って案内文を作成した。
椿の机の前に行くと「印鑑をお願いします」と案内文を突き出した。
冷めた心はそれ以上の説明をする気にさせなかった。
椿も何も言わずに印鑑を押した。人事部発信文としてのチェックや校正など気がかりなこともあったが、それを平田に確認することが今は許されなかった。目と鼻の先にいる2人であったがそこには膠着した大きな溝があった。だが、椿は違うことを考えていた。
平田は、人がやらないからやっただけで(副)として自分の印を押すと自分の役割はもう終わりだ。あとは部下の仕事だ。
様子見の期間が長かった分、タイミングはギリギリのところに来ていた。期日のあるのが人事の仕事だ。都合のいいときだけ押し付けてくる狡さをあげつらい、平田も知らんふりしてもいいのだが、それができないのが平田である。未来への責任感が放置を許さなかった。
こうした案内文は人事部長ではなく、人事部で発信するようにしている。人事部長にすると人事部長による通達文になってしまうからである。これは人事部の業務である。
この中間チェックに椿は救われた。平田との対話の糸口が見つかった。これまで平田にしてきた無視や拒否、仕事の遅滞など全てをキャンセルする切っ掛けになる。そう思うと単純に嬉しかった。
“救われた”
そう思いながら印鑑を押した。少しの誤字脱字やミスなどどうでもよかった。

人事部発信文章とはいえ、当然人事部長にも案内は来る。
翌日、一番に届いた案内文を片手に、椿は人事部の主任以上、全員を集めてミーティングを開いた。
「主任以上は目標設定シートを持って全員集まってくれ」
平田もだるい体を引きずってミーティングに参加したが顔は歪んでいる。
席次は決まっているわけではないので各々好きなところに座る。
部長は座長であるからやはり一番中心となるような場所を陣取る。縦長の場合は上座と思われる一遍に座る。みんなもそうなるようにその場所を空けて席を取る。部長のすぐ横はあまり人気がない。一番いいのはそこから2、3人飛ばしたところだ。話も良く通るし顔も見える。
だが平田は、わざと一番遠い所で隣の人間の陰に入って椿の死角になる所を陣取った。若い者が「上に行ってくださいよ」と頻りに肩を押すが「まあ、いいじゃないか。あんたが行きんさい」と動かない。
そのうち全員が揃い、なし崩し的に席が決まった。

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