更新 2013.07.05(作成 2013.07.05)
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第6章 正気堂々 86.承認
人事というのは役員会に掛ける案件が多い部署である。異動、昇進・昇格、賃金改定、賞与、制度改定、賞罰、採用、解雇、等々である。
他部署は多いといっても似たような案件がほとんどである。営業では売り上げや契約のことであり、製造では合理化や効率化のための設備投資といったことがほとんどである。しかもその判断は数理を基準としており白黒がはっきりした世界のことが多い。さらには一定額以下の場合は現場に裁量権が任されている。人事には現場の裁量などまずない。せいぜい時間外勤務の指示命令権くらいだろうか。
人事は計算ずくではじき出される案件はめったにない。賞与や昇給でさえも数値で示されはするものの、そこには関係者の思いや考え、思惑が凝縮された結果であって、むしろ判断の論拠のほうが優先される。
丸山は、人事に来てそんなことを繰り返し4年間も鍛えられてきた。
この人事制度も役員会で説明するのは中間報告に次いで2度目である。制度のこともすっかり頭に入っており、要領よく説明することができた。
現在の役員会の構成は、常勤役員と監査役が入って14名である。監査役は正式メンバーではないが、経営をより理解するためかあるいは監査の精度を高めるためか、樋口が言い出したのか監査役からの要請かもわからないが、中国食品では随分前から監査役もオブザーバーとして参加する状態が続いている。
監査役というのは、株主の付託を受け経営の透明性やコンプライアンスに目を光らせて経営者による会計の不正を未然に防ぐことが本来の役割である。だが、もともと自社かあるいは親会社の財務関係の役員から選任されることが多く、現職経営者とは言わば仲間内ということが一般的である。
現職役員にしてみれば、監査役に元気に活躍してもらって経営の枝葉末節をあまり突いてほしくはない。仲間内にしっかり取り込むか、あるいは情報を隔離するかして、どちらかというと一定の距離をおいておきたいというのが本音だろう。
中国食品の役員会の構成もその辺の思惑が色濃く反映したものであろう。何時の日からかこの形態が続いている。
その監査役は、日頃はルーティンワークがないから大半の時間を持て余している。何か目新しい話題や大きな経営の変化を表す兆候はないかと日がな社内をウロウロし、誰彼となく社員の側に座っては話しかける。いわば年寄りの時間つぶしのようなものだ。近くの女性社員は気を利かせてお茶かコーヒーを用意してやる。
経営に責任がないから極めて気楽なものだ。経営が順調に行きさえすれば会長、相談役と並んで役員の中でも最もいいポジションであろう。むしろ経営に睨みを利かせられるだけ面白いかもしれない。
そんな役員会も、制度についてはこれまで散々議論し中間報告では方向承認も与えていることだから余程の内容変更がないかぎり今更反対はできない。こういうときに出る発言は、反対意見ではなく制度をより理解するための質問か確認、または、積極的に賛意を表明するための「よう出来とる」という賛辞かである。
幾つかの確認が終わり発言が途切れた。静寂の中に一瞬の緊張が走る。
「もはや中間報告で承認されていることであり、今更反対もあるまい。少し厳しい感じもするが、惰眠から目覚めさせるためにはこれくらいのことはあってもいいのかもしれん」と、樋口が「俺は賛成だぞ」という意思を発した。
それに押されるように役員会の空気は一気に流れた。他の役員も大きくうなずき、それで新人事制度導入が正式に決定された。
「それで、この制度を運用するとどういう現象が一番顕著に現れるのですか」
その監査役が、なにか時代が動き出したぞというような高揚感を醸し出しながら聞いてきた。パラダイムがどのように転換するのか、自分の時代にはなかったことだ。
「実力の現在価値を基準に処遇をしていきますので、若手有能社員と既存管理職との下克上が少し早めに現れるようになるかもしれません」
丸山もその意が読み取れただけに、それに応えるような回答を返した。
「会計も時価価値方式に変わってきましたからね。人間もそうあるべきかもしれませんね」
「うん。いいだろう。大いにやりなさい」
樋口は認めた。
「それではこの制度に則って来年度の人事案の準備に入るように」
「ありがとうございます」
丸山は立ち上がって深く頭を下げた。
空気がざわついた。「やれやれ、これで一件落着」のような緊張の解れが役員会議室を覆い始めたとき、
「それともう1点なんですが……」
丸山は、これはいかんと慌てて大きな声で場を制した。
「なんだ。まだなにかあるんかね」
年配の役員が、もう制度のことはウンザリだというように面倒臭さをぶつけてきた。
「制度移行のための原資が基準内賃金比4.6%、月額2100万円掛かります。これもご承認いただいたと考えてよろしいでしょうか」
丸山には一番気になることだ。ここを通らなければ完全承認とはならない。原資が思ったより多いだけにドキドキしている。
「少し工夫をすると多少は減るのかもしらんが、それは人事部の仕事だ。役員会で審議することではない。そんなことチマチマと削ってもしょうがあるまい。必要と思うならば堂々とやればよい。承認されたということはそういうことだ」
樋口の一言で反論は押えられた。中には、俺たちは1円を凌いでいるのに甘いんじゃないかといったような顔をする役員もいたが、表立って口にする者はいなかった。
丸山は再び深く頭を下げた。
人事に戻った丸山は平田と柴田を呼び、説明会と人事異動のスケジューリングを指示した。
12月に入ると新人事制度による運用開始が現実味を帯びてくる。
平田が人事プロファイルを駆使し、新人事制度の昇格要件、昇進要件をクリアした者を順にリストアップし、付帯資料として用意する。
一般職の異動については、人事課長の柴田がデータを元に各部署長の意見を聞きながら異動案としてまとめる。ただし異動だけだ。昇格、昇進は人事部長が管理職と共に案をまとめ役員会に掛ける。
管理職の場合は、特に部長クラスは重要人事としてプレスに報告しなければならず、慎重にそして極めて厳重に秘匿される。
平田は気になることがあった。それは自分自身の名前がデータ上どうしても上位に顔を出すことである。このままでは昇格してしまう。昔、川岸に「人事は最後や」と言われたことも深く心に残っているし、「自分のために制度を改定したのか」との誹謗も聞こえてきそうで気になる。