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大失態

更新 2016.06.03(作成 2012.08.15)

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第6章 正気堂々 54. 大失態

「うちと同じように検討すればいいじゃないか。なにも基準がなくて制度だけ横滑りでいいのか」
意地やメンツがある高瀬は、権高に言い返した。
「そういうことは会社がスタートして落ち着いたころにじっくり取り組む問題でしょう。今はわが社の制度に乗っているんですから横滑り制度でも十分納得感はあるし安定感もあります。それでなくても不安がいっぱいのところにもってきて、馴染みのない新しい制度なんかを当てはめたらかえって混乱します。それこそ新会社の陥穽になるんじゃないですか」
「そうは言うけど、彼らは訳のわからない会社に追いやられて、転籍料ももらえんのよ。少しは賃金水準を高くしてやらんといかんやろ」
高瀬の論理の特徴だ。どこか誰かのためを思って言っているようにみせて、ロジックが成り立っていない。ただ、みんなはこれに誤魔化される。
「何を言いよるんですか。問題が違うじゃないですか。ふらふらとあっち飛びこっち飛びして、支離滅裂じゃないですか。一体何が言いたいんですか」
平田は大きな声で怒鳴った。
「転籍料の問題なら役員会に言ってください。同水準でスライドって方針が決まっているのに小手先のテクニックで水準を上げるなんて、そんな不正は断固できません。ごね得を推奨するんですか」
平田はバンと机を叩いた。
「いい加減にしてくれ」との叫びを、丸山や新田に伝えるための精一杯の演出だ。
政策の具体的内容に踏み込んだときの高瀬の迷走ぶりは、社内でも知られていたが情緒的観念論は人受けがよく、論理の滅裂ぶりがかき消されていた。
だが、常に関わりをもっていなければならない平田にとっては迷惑千万のなにものでもない。このままいっても足を引っ張られるだけだ。ここは精一杯アピールしてそのことを訴えなければ……。
しかし、その仕掛けは平田にとっても危ういターニングポイントになる可能性がある。新田や丸山が、それでもなお高瀬を重宝するというなら自分が飛ばされるかもしれないからだ。激情家のトラブルメーカーと受け取られるかもしれない。
だが今回はそれでもいいと思った。
なにか昔あったこんな光景が思い出された。浮田との政策対立だ。あの時は政策の是非論が原因であって上位者である浮田にヘゲモニーがあるのは致し方なく、左遷という屈辱を味合わされた。
今回はあのときと違う。明らかに二者択一の選択であることを認識した上での仕掛けであり、ジャッジメントを丸山や新田に委ねた戦いだ。例え敗れたとしても、丸山や新田がそれを選択したのであれば自分に力がなかったと割り切りがつく。
どうせこのままじゃ何も出来ない。敗れても同じことだ。また、工場に戻って製品を作ればいい。もう浮田もいない。今回はそんな覚悟があった。
勝負は五分五分だ。片や会社が選んだ管理職。こちらは制度の実務者。失う物はなにもない。平田は随分と気楽だった。ただ、丸山や新田の懐には入っていると自負があった。それでなければこんな無謀な賭けはできない。
「まあ、両方とも言いたいことはわかるが、今は転籍が急がれる。高瀬の言うことは通常業務に入ってから問題があれば再度提起すればよかろう。今はいかにスムースに転籍させるかを優先する」
新田が会議の最高責任者らしく、簡潔に2人の矛を収めた。
もうじき「常務取締役」の肩書きに手が届こうかという、今最も上昇気流に乗っている新田は、自分の政策の中に「ごね得」のようなそんな瑕疵が入り込むことを見過ごさなかった。
どうやら平田の演出は功を奏したようで、新田や丸山の脳裏に高瀬の実像を強烈なインパクトで残したことは事実である。どっちの理屈が正論だということは関係なく、人事の実務の中枢でこんな迷走と混乱が起きていることが問題だった。
この論争で高瀬は大失態を犯していた。
「訳のわからない会社」と新会社を蔑み、「転籍料ももらえんのよ」と政策非難も犯していた。そんなことが行かされる者の耳に入ったら、彼らはどんな思いになるだろう。誰もが気を使い禁忌している言葉だ。
いかにも転籍者を気遣うような言動に埋没して気付く者は少なかったが、丸山は聞き逃していなかった。
新田は会議後も沈鬱な表情を崩さず、会場を後にした。

昨年度スタートした中期経営計画の経済見通しは、少子高齢化の中でこれまでのような大きな飛躍は望みにくいというふうに展望していた。その上で、これからの会社の命運を左右するのは創意工夫と柔軟な発想でどんな環境変化にも対応できる人材力であり、コスト競争に勝つ効率化であり、多角化であると謳ってある。年計画はそれを実現していくための里程標的内容で構成されていた。
初年度には人材育成のための研修センターが完成し、本年度は多角化の一環として関係会社が2社立ち上がった。吉田が転籍していった外食産業もスタートしている。
効率化はコンピューターを使ったIT化の推進が謳ってある。
IT技術は年々進化し、今年は各人のパソコンにメール機能が入った。それはパソコンが単なる計算機やワープロの類から、ネットワークやコミュニケーションツールとして生まれ変わったことを意味し、中国食品でも社内通達やインフォメーションの仕方が大きく変わった。個人間でも情報のやりとりが頻繁になり、ファイルを添付する形で共有化が各段に進んだ。
工場ではFA化が進み、4工場あった工場も3工場に集約された。もちろん集約するにあたっては技術の更新が欠かせない。最新設備に入れ替えたり、生産体制を見直したりして古い工場から順次統廃合を繰り返した。浮田が山陰工場を作ったりして設備を拡大したのと真逆の動きである。
人事関係では人材開発が一大命題であり、来年度には人事制度も完成させなければならない。
人事制度構築は半年ほど休業状態だったが、転籍問題が決着しやっと取っ掛かれるようになった。
「平田です。ご無沙汰しています。関係会社の制度整備が終わりましたのでまた制度構築に入ろうと思います」
「お疲れさまでした。企画のほうへは時々お伺いしていましたので、もうそろそろだなと思っていました」
早速藤井に連絡を入れ、会社都合の不作法をわびると同時にこれからの段取りを打ち合わせた。
「それではスケジューリングして後日御連絡します」
忙しそうな藤井はそれでも声を弾ませて電話を切った。
平田は嬉しかった。やっと一歩前進することができる。
平田の仕事は、ほとんどが慣例や前例がないことばかりである。だから人事企画なんだと言われればそうかもしれないが、一つひとつのテ−マが自分で研究し、創造し、最後は腹を括って提案し組織に展開しなければならないものだった。
今回の人事制度の改定も初めての体験である。コンサルをつけてもらったことがせめてもの救いである。なんとか前進しているが、不慣れであることに変わりはない。新会社立ち上げなどもあり、ここまでおおよそ2年の時間を要した。最初は1年もあれば出来るだろうと高を括っていたのだが、そんな甘いものではなかった。
制度構築には一定の手順やセオリーがある。その手順やセオリーの確かさ、思考の深さがコンサルタントの質の違いだ。制度担当者はまず、そこを見極めなければならない。
これまで平田は、その手順を抜いたり破ったりするとそのたびにことごとく藤井に痛罵された。論理の矛盾、考察不足を逐一看破され、差し戻しをさせられた。そうした苦しい2年間の議論の積み重ねが、制度の基礎として根を張ろうとしている。
半年間の空白は、平田を新鮮な気持ちにさせた。
制度構築のステップは、コンセプトが出来上がり、今後は登山に例えるとベースキャンプを作るという段階まで来ているという。
ベースキャンプとは一体どういうものなのか。改めてワクワクするような高揚感があった。

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