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意識のズレ

更新 2016.05.30(作成 2012.03.15)

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第6章 正気堂々 39. 意識のズレ

翌日、営業と電算の相性が良くないことを憂慮している堀越は、スタッフに指示すると同時に自ら電算に乗り込み、開発を頼んだ。
電算室長は榊下幸二だ。12、3年ほど前、世の中に電算が普及し始めたころ中国食品も本格的に電算を導入したのを機に、それまで開発課の1セクションだった電算業務が電算室として独立して以来、榊下がずーっと室長を務めている。社員も毎年新卒を1、2名ずつ採用し今や総勢18名にもなった。中堅社員も力をつけてきたが人事に硬直感があるのは他セクションよりも強い。
どのセクションも、そして日本中が右肩上がりの経済成長からスピンアウトしようかという今、人事に停滞感と閉塞感が覆い始めたのは確かだが、電算室はその上に特殊技能集団という事情が人事ローテーションを更に難しくしていた。彼らを他で使うことは容易いが、代わりを育てるのに時間が掛かる。それが他セクションとの人事交流を難しくし、狭い世界に閉じ込められた彼らの意識を歪曲化し、殻を作らせてしまっている。
堀越は榊下の横に常に置いてある折りたたみ椅子に長身の腰を折って腰掛け、まず皆に笑顔で愛想を振りまいた。女子社員がすかさずお茶を入れる。
堀越は、「ありがとう」と丁寧にお礼を言った。彼はこういう時どんな相手でも必ず礼を言う。あいさつもしない役員もいるが彼はそんな驕りは見せない。人に対するそんなマジメさが社員の信頼と人気を集めていた。
プロパー役員実力ナンバーワンの、常務取締役営業本部長の突然の来訪で電算室全体が緊張に包まれた。
そんな雰囲気を察知した堀越は、熱いお茶を一口啜りながら、
「新しい電算はどうかね。少しは合理化は進んでいるのかね。俺の机にもパソコンが入ったけど難しいのう。しっかり教えてくれよ」と、砕けた口調でおどけてみせた。
「はい。研修や講習会を予定しておりますし、役員の方には個別に訪問しております」
榊下も少し和らいだ表情で答えているが、顔の隅にまだ緊張の後が残っている。
「なんせ忙しいからな、研修なんか受けとられんよ」
すでに54才にもなっている堀越は、いまさら研修などだらしくて仕方がない。それに本部長になった今、新入社員と同じように自分でパソコンを操作しなければならないことに多少の不満もあった。
“命令一つで必要資料は誰かが届けてくれるのじゃないのか。それが組織構造の頂点に立つ者の特権だろう”
堀越もまだアナログ回線で思考していた。命令の代わりにそれがクリックになったことをまだ理解できないでいた。それになんといってもパソコンが理解できない。一つひとつアイコンをクリックしてどこかにしまってあるデータを引っ張り出す、そんなバーチャルな世界が未だ飲み込めないでいた。堀越にしてみればペーパーに打ち出された活字こそが唯一信頼できる現実なのだ。少しでも操作を間違えるとどこかに消えてしまったり、全く違う数字に化けてしまう画面の文字など危なかしくて信用できるものか。そう思えて仕方がなかった。少しでも間違えると画面はとんでもないところに飛んでしまう。そうなると何がなんだかさっぱり訳がわからなくなってしまい、自分が今どこにいるのか迷路に陥ってしまう。パソコンに向かうときはいつも緊張を伴う。そんな操作が煩わしくて仕方がない。
会話の中では堀越自身がもうすでに拒否のポーズを示しており、ミイラ取りがミイラの状況を作り出していた。それほど営業の人たちは電算と相性が良くない。
「そうは仰られましても慣れていただきませんと会社全体の仕組みが進みません」
「わかっちょる。それもそうだが難しいのう」と言って大きくため息をついた。
「それで今日は君たちに頼みに来た。君たちも知っているように営業の長時間労働は問題だ。営業は本社と違って肉体労働だ。本社のようにいつまでも会社に縛っていていいわけがない。長く働いたからといって売り上げがついてくるわけじゃないしな。しかしやらなくちゃいかんことは山ほどある。そこをいかに効率よくこなすかが時短に繋がる。そればかりじゃない。営業は収益の源泉だ。そこのシステムがこんなお粗末でいいのか。営業戦略を考えるうえでも近代化せにゃならんのだよ。バイヤーたちが電算を駆使して仕入れ交渉に有利な戦略を描いてくる。それに勝たねばならんのだよ」
堀越は、電算社員全員に言い聞かせるように榊下に向けていた顔を皆のほうに振り向けて話した。
近くに居る者は気を使って堀越のほうに半身を向けて話を聞いているが、遠くの者はどうせ聞こえないからと新しくなったパソコンのモニターに見入っている。最近入ってきた若い社員は、常務取締役営業本部長の肩書きがどれほど重いか実感できないでおり、まるで自分には関係が及ばない無限の空間が広がっているかのごとくよそよそしい。恐れ入るふうでもなく媚び諂う様子もなく、関心もない。ただ距離を遠くし、まるで他人を見るように仏頂面で収まっている。
「それでじゃ。営業システムをリニューアルしてくれんかな。うちで何をどうするかをまとめるから、それを電算でこさえてくれんかな。営業は電算に疎いからお前たちの思うようにいかないかもしれんが、そこをうまくやってほしいと思って頼みに来たんだよ」
堀越は、本部長たる自分がこんなことを頼みに来なければならん営業スタッフを情けなく思いながら、人を育ててこなかったこれまでの営業体制に疑問を抱いた。
「はぁ。もちろんそれは吝かではありませんが、仕様書をしっかり作っていただくことが大事です。私たちはそれに沿って開発するだけですから」
「そう難しいことを言いなさんな。俺たちは営業のプロだ。営業のことしかわからん。君たちは電算のプロだろう。こういうものを作ってくれと言ったらそれを作るのが君たちの仕事じゃないのか」
堀越は自分の意思が伝わらないことに苛立ちを覚えた。
一方の榊下は、違うと思いながらもそれ以上堀越と電算の位置付けを言い争う気にはなれなかった。どうせ最後は力でねじ伏せられるだけだからである。堀越にもまた、その場の面子を保たせることができたとしても空しい虚勢感を抱かせるだけだろう。不毛の溝が残るだけだ。榊下は、そう考える人間的柔軟さを持っていた。
電算と他セクションとのこうした意識のズレは、お互いの立場を理解し合い業務手続として認知されるまでかなりの時間が必要だった。電算が急速に普及し始めたことで、こういう摩擦はあちこちの会社からも聞こえていた。

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