更新 2016.05.30(作成 2012.02.15)
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第6章 正気堂々 36. 制度は後追い
時短への取り組みが全社を挙げての活動になっていたそんなとき、思いがけないリアクションが松崎から来た
「お前たち人事部は俺たちに早く帰れ帰れと言うが、村山を見てみろ。毎日遅くまで残って残業代ばかり稼いで、何にも仕事らしい仕事はしとらんじゃないか。あんな奴をほっといて俺たちばかりに時間を減らせ、残業を減らせというのか。俺たちはこんなに忙しいのに」
村山というのは人事部のある男性社員で、年は42才で平田と同い年だがやはりその働き方が災いして主任より上がれないでいた。給与も管理補佐4級に据え置かれたままで頭打ちになっている。そのことがインカム狙いの残業稼ぎにつながっていると言えなくもなかった。
以前は営業所の事務をやっており、会社成長期は経験値の差で主任までは年功的に普通に上げられてきた。しかし、市場は複雑になり事務も電算化され経理も高度になってきた。内部管理も年功というだけでこなせる事務内容ではなくなった。それでも、現場は1分1秒の対応が求められる市場との格闘をやっており、事務の巧拙が決断を誤らせることもある。彼の仕事ペースでは市場に間に合わなくなり、前線の営業マンから不満が頻繁に出るようになった。
こういう人の扱いは厄介である。本人は一生懸命やっているつもりだが自己満足的なメイクワークが多い。少しでも「早くやれ」とか注意をすると「やってるじゃないですか」と噛み付き、挙句の果てはムッツリと自分の殻に閉じこもってしまう。人事的には最も厄介な人種だが、生きる道は探してやらねばならぬ。
「人事が採用したんだから人事で引き取れ」こんな責任論を押し付けられたわけではないが、現場に置けないとなれば引き取るしかない。結局人事部の厚生課で申請業務の受付や手続きなどの事務処理をやっている。
今彼の働き方が再び問題に挙げられた。
なにか規定や制度が見直されるときというのは、いつの時代もこんなシンボリックな事件や人があげつらわれる。そんな象徴的な社員はどこの会社にも1人や2人はいるもので、結局こんな社員がモデルとなって規制がかかる。
制度というのはいつも現実の後追いだ。現実社会の中に事件や事象、人がいるから制度が被せられる。「時代を先取りした制度」などと言ってはみても、所詮現実的事象の上に立った人の予見に過ぎない。
こうしたシンボリックな人間は恐らくその社会のなかで異端児的扱いだろう。人事という立場で見たときこのような人間というのは腹立たしい存在になる。多様性の許容という側面で見ればこのような人材もいてもいいが、片方で仕事は効率を求める。人事は成果に応じた公平な配分も目指している。原資も限られている。裏返せば、このようなインカム狙いの人間がいたとき、公平な配分を目指したシステムに狂いが生じる。人事はそれを嫌う。
中国食品はこれを切っ掛けとしてフレックスタイム制を導入した。
制度の基本的構成はこうだ。
1.労働者の範囲:受付や守衛、秘書など特殊な業務従事者を除く本社勤務者のほぼ全部署
2.清算期間: 毎月1日から月末日(残業清算期間)
3.清算期間における総労働時間:労働協約で締結している労働時間
4.コアタイム:午前11時から午後3時
他に細々した取り決めはあるが、ざっとこんな内容で発足した。
ただ、事前申告制で前日の終業時間までに上司に申告しておく必要がある。それは、所属員の勤怠情報は管理者として職場運営の根本的要諦だからである。
毎日遅くまで居残っていた者にとって朝の2時間の自由時間はありがたかった。通勤ラッシュを避けるだけでも時間と体力の節約になる。それに1カ月の清算期間は、ほとんどの仕事が月単位のリズムで流れているから繁忙のやりくりがつきやすく時短に貢献した。
導入当初は突出するのを避け、他人の利用状況を横睨みしながら恐る恐るの利用状況だったが、管理者間に特段の拘りがないとわかってからは少しずつ利用者が増えてきた。しかし、それでも基本は9時から17時30分である。ほとんどの社員が9時に出勤しようともがいているのは事実だ。
そんな中、それはそれで新たな問題が生じてきた。この制度を逆手に取る者が出てきたのである。
ある若手男性社員のことだ。フレックスに慣れてきたころから出勤時間がだらしなくなってきた。毎朝コアタイムギリギリにやってくる。コアタイム利用が申請されておればなんら問題はないのだが、その連絡が当日の朝になる。それも女性社員に電話を入れ、課長に言わせるのである。そんなことは会社として、導入当事部署の人事として許されない。平田は陰に呼んで事情を確認した。
「9時に出ようと思うのですが、毎日遅いので目が覚めないんです。それでついフレックスに切り替えることになるのです」
平田は、そんなことだろうと思っていた。しかし、それは見逃すわけにはいかない。
「ルールはどうなっている」
「事前申告になっています」
「わかっとるんなら守らんといかんやろ。そりゃ、人間だからたまにはそんなこともあるやろう。それが故意でなければ笑い話で済まされるが、こう毎日ではつい寝坊しましたでは通用せんぞ。ただ怠惰なだけじゃ。推進部署の人事が制度を矯めにするようなことで他部署に顔向けができるのか。今日遅くなるのがわかっているなら明日の朝は辛いだろう、フレックスを申請しておこうと、それくらいのコントロールができなくてどうする。もう新入社員じゃあるまいし後輩も見てるんだぜ」
人間というものはなんと愚かでペーソスを誘うものか。誰も注意をしなかったらこの若手社員も軌道を外したまま、ふしだらな人生を送ったかもしれない。
制度を理念倒れとか言いっぱなしに終わらせないためには、このような小さなバグを一つひとつ地道につぶしていくしかない。制度管理者の大事な役目だ。その覚悟がなければ制度管理者は務まらない。