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存在意義

更新 2011.02.04(作成 2011.02.04)

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第5章 苦闘 71. 存在意義

「ヒーさん。悪いがちょっと会社に出てきてもらえんかね」
「えー、今からですか」
「部長が委員長と話を付けたんよ。月曜日に根回しをして火曜日に役員会にかけるから原資計算と役員会資料を作ってほしい」高瀬からの電話は、これから夕飯のテーブルに着こうかという時だった。
土曜の休日だったが平田はいつものように出社し、人事評価の打ち込みや二次評価資料の整理をやってきたばかりだ。明日は姪の結婚式で上京しなければならないため、少し早めに帰宅していた。
一方で川岸は、賃金改定交渉の下工作をするため坂本を呼び出していた。社内では「裏工作か」と勘ぐる向きも無きにしもあらずで、流川の懇意な居酒屋に頼んで場所を貸してもらい、外野抜きの差しで話し合った。酒好きな2人らしいが、本音で話し合うにはこういうシチュエーションがいい。
「会社はいけません。これだけ利益を出していながらベ・アが少なすぎます。査定昇給原資が多くなった分ベ・アが少なくなっています」
坂本は会社への不満を露にした。
「しかし、それは組合も承知の上だろう。職能資格制度を検討したときからわかっていたことだ。働きの悪い人の昇給が抑えられるのは仕方がない。それが年功から能力主義へ替わるということだ。賞与、残業、退職金などへの跳ね返りを考えるとそれでも高いくらいだ。それに利益との整合は賞与だ。前から言っているように賃金はバランスシートの問題だ。フローで計るものではないと思っている」
役員になって初めての株主総会がもうすぐだ。それまでには合意形成をしておきたい川岸は真剣だ。
「それは組合だけのことじゃなくて、会社だって定昇・査定・ベ・アの枠組みが変わって新しいステージへの移行を覚悟すべきでしょう」
「もちろんそうだ。しかし、定昇、査定昇給が変わってベ・アも今までどおりというのは、これまでの会社の立ち位置を完全に変えてしまう。フローは……」
そこまで言った川岸の先を坂本が取った。
「利益は賞与で分配しようって言うんでしょ。しかし、その賞与も年々係数が下がっています。どこかで歯止めを掛けなければ限りなく0に近付きます。会社が赤字のときには組合も我慢して再建に協力してきました。営業支援もしてきたじゃないですか。会社が立ち直ってからは樋口さんのトップ・ダウンで何もかも進んでいますが、このままでは組合の存在価値も問われかねません」
団交の席ではないので言い回しはいたって普段どおりの気さくさだが、内容はお互いの本音を辛辣にえぐり合った。
「組合の存在感なんてそんなことじゃないだろう。カルチャーであったり、委員長のリーダーシップによるガバナンスの問題だろう」
「それも組合の経済的交渉力が機能した上でのことです。その裏付けがなければ存在意義が問われます」
「それはわかる。組合にも体面はいるだろう。しかしな、委員長。正直わが社の賞与は金額的には大体においていい水準だと思うぜ。電機や自動車産業と比べものにはならんが、食品産業では大手と比較しても遜色ないやろ。地場食品とでは賃金も賞与も高水準だろう」
「食品と言ってもいろいろです。食品は家内工業的な零細企業が多いですからね。一概に比較はできません。それに、メディアのニュースは全国レベルしか流れませんからね。組合員は嫌でもわが社と比較するんですよ」
「うん、それはわかる。だが、その辺の情報整理も幹部の仕事だよ。うまくやってくれよ。近頃オヤッさんは大分俺の言うことを聞いてくれるようになったんだが、経営についての厳しい姿勢は変わらん」川岸はそう言いながら親指を立ててみせた。
「それで今年は中計の最後だろ。CBの株式転換も進めたいようなんだ。株価を維持するためには利益水準は落とせないと思っているようだ」
「そのためにしわ寄せを組合に押し付けるのはだめですよ。わが社は配当がいいから、株式への転換はそれで十分促進されると思いますよ」
坂本は少し間を置いて、
「売り上げは昨年と同じ水準を見込んでいるんでしょう。だったら利益は出るでしょう」
「それがこの円高で海外から安い平行輸入品が入ってきて、営業が苦労してる。1、2月の売り上げは前年を割った。年間の売り上げも維持できるか微妙なんだ。そのテコ入れに金が要る」
ここにきて、食料品市場もバブル崩壊と無縁ではいられなくなってきた。中国食品の販売動向にもじわりと影を落とし始めている。
「そんな話は団交トークでしょう。今日はどう落ち着かせるかを考えましょうよ」
「わかった。それじゃ、ぶっちゃけた話、委員長の本音はどのへんかね」
「今年は世間相場よりコンマ1ポイント以下では考えられません。一時金は夏冬2.4カ月、2.4カ月の固定、これは譲れません」
坂本もうなずきながら最低ラインの本音を吐露した。
川岸はしばらく腕組みをして下を向いた。かなり厳しい線だと踏んでいるようだ。コンマ1ポイント下も難しいし、賞与固定の2.4カ月はもっと難しい。トップにも組合にも首を縦に振ってもらうのはどこか探っている。
目を閉じたまま天井に顔を向けたかと思うと、また下を向いたりして苦悩の色を滲ませた。
「一時金は春闘と同時決着できるかね」ときどき質問を投げる。
「そりゃ、この水準ならできますよ」
「去年と同じ2.3ではダメかね」
「それなら、6月交渉になります」
「つまり、利益見込みが立たない不確実性を賃金か賞与固定のどっちにどれだけ織り込むかを考えているんだよ。どっちがオヤジさんが納得するかがわからん」
「それはお任せしますから、次の団交で合意に持っていけるような回答を準備してください」
こうしてこの日の委員長との下交渉は終わった。
この段階で川岸は、賞与は2.3カ月で6月まで継続交渉とし、賃金改定は週明けには明らかになる大手の相場を想定し、0.05%きざみの昇給案を準備することを決断した。

川岸は、坂本との話が付いたあと会社に出て高瀬を呼び出した。委員長との話の主旨を伝え、平田を呼ばせた。
「私は明日朝一番で、姪の結婚式で東京に行かなければならないんですよ」
「そうかー」高瀬は苦悩のため息をついた。しかし、他に手はない。
「それは悪いなー。しかし、交渉は勢いだろう。今ここで一気に社内コンセンサスを固めなくてはうまくないんよ。なんとか頼めないかな」
高瀬の哀願するような声が受話器の向こうで響いた。
平田はそんな声を聞きながら東京行きを諦めていた。他に代わりがいない以上、仕方がない。
「わかりました。それじゃ、夕食を済ませたら行きましょう」平田は憮然として承諾した。
平田は東京の兄に断わり妻だけを行かせることにして、ため息をつきながら徹夜の仕事に向かった。冬の徹夜は堪える。
平田が人事部についたときは既に9時を回っていたが、川岸も高瀬もじっと待っていた。
「ヒーさん。すまんな」川岸は申し訳なさそうに言葉を掛けた。
その一言で気は済む。

制度構築は暗中模索で所長たちとは軋轢を生み、家庭は妻に任せきり、課題は次々に降りてくる。休日もほとんどなく、ほぼ毎日、徹夜のようなハードワークは続いた。通勤の負担を軽減するため住居も住み替え重いローンも抱えた。初めて経験する人事の仕事は平田にとってまさに苦闘の連続だった。
しかし、今の平田には交渉や制度運営は自分の存在意義そのものだ。そこには夢中にさせる何かがあった。

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