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育てる投資

更新 2016.05.26(作成 2010.12.03)

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第5章 苦闘 65. 育てる投資

92年2月、冬の最も寒い時期のことだ。
例によって川岸は平田と目が合ったとき、下からのぞき込むような眼差しの前で小さく手招きした。
「ヒーさん。今度の土曜日に船釣りをセットしてくれんかな」
他の者に聞こえないように小さな声で言った。
この時期は年度計画がスタートしたばかりでどの部署も忙しい。人事部も職能資格制度の完全移行を前提の賃金改定の準備と交渉、新入社員の受け入れ、研修など行事が目白押しだし、各部署へ目標設定面談のフォローもしなければならない。経営陣も総会を控えて決算準備に忙しいはずだ。そんな時にめずらしい川岸のリクエストだ。
「エーッ、この時期ですか」平田も目を丸くして聞き直した。
「ウン。スマン。実は社長が行きたいって言うんよ」川岸は気の毒顔をしてみせ、お前が頼みと言いたげだった。
「社長がですか」平田も何のためらいもなくオウム返しに聞き返した。
「そうなんよ。このところ気が滅入ることが続いたやないか。この前話をしたらな、大分参っとるらしいんよ。『何かいいことないか』って言われてな。『飲みはお前たちに説教ばかりになるし、ゴルフもつまらん』って言われるから、それじゃ釣りでも行ってみますかって言ったらその気になったんよ」
川岸は、自分の好きな遊びに樋口が乗ってきてくれたことが嬉しいらしく小さい声を弾ませていた。
「そうですか」平田も、樋口と行くことにまんざらでもなく、どんな釣りになるかと面白がった。同時に「釣りバカ日誌」の映画のシチュエーションを思い出してなにやら可笑しかった。
「近頃なんだかんだと心労が重なっているやないか。息抜きがしたいんとちがうかのー。ヒーさんも忙しいと思うがなんとかセットしてくれんかな」この段階ではもう、受けてくれることを確信した自信に満ちた押しである。平田との呼吸だ。
「わかりました。じゃが、この時期釣れませんけどね。何をやりますか」
「何でもいいんよ。もともと海の会社の出身やろ。元来好きなんとちがうかな。血が騒ぐってやつよ」
「なるほど。そうですか。海に出られるのも久し振りなんでしょう。それじゃ筏でメバルでもやってみましょうか。カレイなんかも狙えるかもしれません」
「うん。頼む」
平田は釣り仲間の岩井に手伝ってもらい、知り合いから借りた船を太田川放水路の係留地から呉の倉橋島沖に向けて出した。どうせこの時期はあまり釣れない。牡蠣の水揚げの最盛期で落ち牡蠣に集まってくるメバル狙いが一番手っ取り早い。50分ほどで目的の牡蠣筏に船を着けた。事故でもあったら大変だ。面白がって飛ばすわけにはいかない。少し時間は掛かったが安全運転で走らせた。
忙中閑の週末だったのだろうか。樋口は珍しく東京へ帰ることのない冬の休日の1日を船で楽しんだ。
山陰の雲のように低く覆い被さることはないが、冬の瀬戸内海独特の分厚い千切れ雲が浮かぶ空から、顔を出すのか出さないのか逡巡する日差しがすだれ模様を織り出す1日だった。
寒風の中で広々とした水面にキラキラと跳ねるそんな日差しを見ているとなんだかわだつみの声すら聞こえそうな気がする。
風を遮るものがない海の上はとにかく寒い。それでも元々海の男の樋口は、そんな寒さをものともせずコンコンコンと来るメバル独特の引きを楽しみ、満足気に機嫌良く引上げていった。若いころに鍛えてあるのか、還暦をとっくに過ぎた男とは思えないバイタリティである。
「おい。‘喜多川’で待っとるからな」
樋口と川岸は釣った魚を土産に迎えの車に乗り、行きつけの割烹料理屋へ意気揚々と引き上げていった。
平田は岩井と船の掃除など後始末をし、会社に車を置いてタクシーで追いかけた。
樋口と川岸は1階のカウンター席で飲んでいてすぐに目についた。まだ時間が早く、土曜日ということもあって客は樋口ら以外誰もいない。
樋口は板前や女将を相手に一頻りの釣り自慢が終わったところらしく、もう既に大分飲んでいるようだ。釣った魚が板前の腕にかかって刺身や煮物、焼き物、揚げ物と姿を変えて並んでいる。さすがに平田らが家でさばくのとは一味も二味も違う。
平田らが着くと
「オーッ、来たか。今日はご苦労だったな。1杯注いであげよう」と自らビールを注いでくれた。
2人ともビールで喉が落ち着くと、潮風に晒された皮膚のべたつきが顔にまとわりつくようで急いでお絞りを顔に被せた。サッパリしたところに後ろから仲居がお通しを置いていった。
肉体的疲労が酔いを早く呼ぶのか、樋口はタバコと杯を交互に口元に運びながらすでにベランメェ調が少し混じった語り口で、何やらしきりに川岸に語り聞かせている。
どうやらこれからの経営の事らしい。平田も必死で聞き耳を立てた。
樋口は川岸を殊更目にかけている。機会あるごとに自分の生き様や考え方、経営の要諦を言い聞かせる。平田もそのお供が許されたときは川岸と考えの距離が開かないように、必死で樋口の話に耳を傾け考えを吸収しようと努めた。人事を運営する上でトップの考えを理解することは大事なことだ。

92年は中期経営計画の最終年度だ。この年度中に社員研修センターを完成させる計画となっている。
今日はその話だった。ファイナンスで得た資金の使い道だ。
「技術主体のメーカーなら、これからの新しい収益モデルに積極的に投資できるがわが社のような会社ではそうはいかん。なんでもかんでも投資すればいいというもんじゃない。山陰工場のようになってしまうからのう。しかし、形は違うがそれと同じ使い道をしなくてはならん。それは、人だ。人を育てるための投資がいる。それを惜しんだら会社は尻すぼみだ」
これまでにも、古い事業所を更新し働きやすい環境を整備したり、持ち株会や提案制度などで社員の参画意欲を引き出したり、創立25周年記念事業を大々的に施行したりと、人への投資を積極的に行っている。
営業所の整備は第1回目のファイナンスを使って90年に終わっている。
これからは育てる投資というわけである。
「社員が、収益構造や投資効率、マーケッティングなどをきちんと勉強しとったらこんな会社にはなっとらん。モラルもない。知識もない。規律もない。そんな奴が上に行くからおかしなことになる。全員鍛え直さんといかん。そうすると会社はひとりでに強くなる。役員なんか要らんのじゃ」樋口の夢の経営の仕上げか。川岸に俺に付いてこいと言っているのか、俺の志を引き継げと言っているのか、強い口調で言い聞かせている。
川岸は、会社を変えたいと思う自分の希望と同じことを樋口が語ってくれたことで我意を得たりと大きく何度もうなずいた。
「人事部は忙しくなるぞ」そう言って川岸と平田を交互に見比べた。

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