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不良債権

更新 2016.05.26(作成 2010.11.25)

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第5章 苦闘 64. 不良債権

「河村常務もかなりやられとるようだぜ」人の口に戸は立てられない。口さがない連中が他人の不幸を無責任に噂する。
河村も銀行から2千万円の融資を受けていた。ただ、こちらは現物取引に限定していたから6カ月ごとに精算する必要はなく、含み損を抱えるだけで実現損は発生しない。それだけに精算する切っ掛けがつかめず、ハラハラしながらもズルズルと保有し続けて、結局株価に振られながらとことん付き合うことになった。
しかし、銀行からの返済督促は厳しさを増していった。株券の担保価値が不足したのだ。普通、銀行は株価の7掛けくらいで担保価値を見てくれるが、もはや河村はそれをはるかに下回っている。株を売り、不足分を預金かなにかで穴埋めして精算すればそれで済んだものを、なかなか損切りができないままズルズルと深みにはまっていった。
一方の銀行も貸し出し債権のほとんどが担保割れや不良債権化し、その分引当金を積まなくてはならなくなった。その上92年度から本格適用されるBIS規制も重くのしかかる。引当金を積めば決算数値を傷める。自己資本比率を維持するため必死の回収が始まった。いわゆる、貸し剥がしだ。
浮田は、自己資金の範囲で投資していたがこちらも含み損は数百万に達していた。
この株の騒動が2人を退任へと追い込む陥穽になろうとは、未だ2人とも気が付いていなかった。
このころ株式に手を出していた者のほとんどが高値つかみをし、株をしこらせている。信用で買った者は追証との追いかけっこだ。
こうした悲劇が日本中で発生し、たまたま飲み屋のカウンターで隣合わせた客の自らの悲劇を嘆く姿を時々見かけるようになった。大抵は己の投資姿勢を省みるより銀行の融資姿勢を詰るのがほとんどで、下手に銀行員の身分を明かそうものならつかみ合いの騒動にもなりかねなかった。
この債権取立ては21世紀初頭の銀行が業績を建て直し、不良債権として引き落とし処理が済むまで尾を引き、その流れにうまく乗れなかった人はその後も返済し続けることになるのである。

こんなリスクを包含しているのが相場であり、投資である。資本主義の市場原理の集約図がそこにある。リスクがあるから大なり小なりの失敗はつきまとう。そんなとき他人(ひと)はそれまで押し殺していたやっかみを取り戻すかのように侮蔑する。なにもしないことが賢者のごとく。
しかし、それでも私は株式投資を勧める。ただ、新井のような投機的投資ではない。失敗しても家計を傷めない、あくまでも自分の小遣いの範囲での投資だ。最低売買単位で数万円で取引できる銘柄もあれば証券会社にはミニ株取引もある。まずはそんなところから始めてもいい。パチンコやゲームに現を抜かすより余程面白いし為になる。3,900社ある上場企業の中からどこに投資するか1社を選ぶだけでもかなりの勉強になるはずである。
世界の経済、日本の経済はどうなるのか。今は投資の時期か。どの分野が有望か。機械か電機か商社か。財務基盤や収益状況はどの会社が優れているか。そんなことを考えるだけでもいい勉強になる。
こんなことをいきなり調べるといっても膨大な量になる。まずは今の知識内での直感で買ったらいい。株を持っていることで新聞やニュースに対する関心度が高まり感性が磨かれていくはずだ。段々わかってきたら投資額を増やしていけばいい。そのための最小投資だ。
実際自分で投資しているわけだからその企業の実力を見抜こうと真剣に勉強する。それは自社や取引会社を見る目に繋がる。次に世界の経済事情や政治情勢がどんな形で企業に影響を及ぼすのか理解が進む。そんなことを通じて経済の仕組みや政治の巧拙を勉強することができる。関連するニュース、記事に関心が湧き日経新聞を読むのが楽しくなる。日経新聞を読むことの大切さは以前にも申し上げた。株式投資も、ビジネスマンとしての経済感覚を磨くための良いアイテムではなかろうか。

野木は新井の破綻のとばっちりからかろうじて逃れられた。「良かった」と何度も自分でつぶやいた。
しかし、新井と野木の間に微妙な歪みが出来たことは確かだ。なんとなくギクシャクした関係は、それはそれで野木を悩ませていた。
平田は、先日来野木がやけに元気がないのが気になっていたのだが、やっとその原因がわかった。噂で聞くだけで本人から何も聞かされないから声の掛けようもなく、ただ気の毒で仕方ない。かって自分が経験した苦い体験が甦ってきた。常務との確執にならないことを祈るだけである。
そもそも部下に保証人など頼むのが間違いなのだ。

樋口は、新井や河村が怪我をするのは自業自得、個人的問題と容喙(ようかい)することを控えていたが、部下までも巻き込んでしまったとなると看過できない。
樋口は新井を呼んで実態を問い質した。
「なんだか大やけどを負ったらしいな」
新井は今にも泣き出しそうな顔をして、蚊が鳴くような声を絞り出した。
「申し訳ありません。いろいろ心配かけまして」
「どうするつもりじゃ」
「会社にはけして迷惑掛けません」
「迷惑を掛けないといっても、君はボードの一員としてわが社の看板を背負っているんだよ。こんなことが世間様に知れてみろ、そんな経営陣に会社を任せられないってことにもなりかねないんだぞ。役員というのはお前一人の問題じゃ済まないんだよ。公金には手を付けてないだろうな」つい声が大きくなった。
樋口は役員がこんな博打まがいの財テクに神経をすり減らし、のめり込んでいくことが許せなかった。
「役員たるもの常に身奇麗で業務に専念するべきだ。財テクに神経をすり減らさなければならないほどの処遇はしていないつもりだ。そのためけして従業員の延長線ではない一段高い処遇をしておるんじゃ。従業員に範を垂れる。それが役員だ」そんな思いから新井が歯がゆくなり、つい大声になった。
「申し訳ありません。それだけは決して……」新井は雑巾を絞ったようなくしゃくしゃの顔で否定し、下を向いてしまった。
「それに部下を保証人に立てとるそうじゃないか。そいつらの気持ちを考えてみろ。心配で心配で仕事も手につかんはずだ。お前は財務部門の責任者だろ。職権を私事に利用するとはなんちゅう不心得じゃ。長としての心構えがなっちょらん。全くバカなことをしたもんじゃ」
樋口は、地位や権力をこんなふうに私物化することを最も忌み嫌った。それは組織の活力を削ぎ、正気論理を歪めてしまうからだ。
樋口の怒りはまだ収まらない。
「生き馬の目を抜くような相場の世界で、お前たちのようなボンクラがプロと勝負して勝つわけがなかろうが」忌々しそうに吐き捨てた。
新井は顔を上げられなかった。頭の中は真っ白になり、もはや自分でもどうしたらいいかわからなくなっていた。
「こうなったらしょうがない。会社を辞めろ。退職金で銀行筋の返済だけはしておけ。証券会社は家を売っぱらって穴埋めするんだな。多少の蓄えもあるだろう」
茫然自失で何も考えられなくなっていた新井は、やっと自分の取るべき対応が見えてきた。
悄然として樋口の部屋を出た新井はその足で東京へ帰り、東京の自宅マンションを即座に売りに出した。それでも足りない分はわずかな預金で穴埋めし、証券会社の損失は穴埋めされた。
そして、92年3月の株主総会で健康上の問題を理由に退任していった。

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