更新 2016.05.26(作成 2010.08.13)
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第5章 苦闘 54. 救済
営業マンは車のエンジントラブルが回復しないと判断し、車から降りて列車に知らせる信号灯を燃やしていたため幸いにも人的損傷はなかった。列車は急ブレーキをかけたが止まり切れずわずかに車の後部と接触した。このため山陽線の上下線とも1時間にわたって不通になり、JRに多大な損害を与えてしまったのだ。
中国食品は車両の保険を、対人は無制限保障で掛けているが対物は1千万円を限度にしか掛けていなかった。創業以来車両事故は幾度となく起きているが修理代金40〜50万円の接触事故が大半で、176万円を最高に200万円を超える事故は一度もなかった。そうした統計をもとにここ数年は対物保険の限度を1千万円に抑えていた。それによって保険代金を大幅に節約していたのだ。
それはそれで正しい判断だろうが、たまたまリスクマネジメントの陥穽(かんせい)に陥るかのように事故は起きた。
鉄道事故は遅れた列車の払い戻しや事故処理費など莫大なものが掛かるといわれているが、事後処理交渉の全権を委任された河村は直接的事故処理の実費だけで上手く収めた。たまたまJR側の責任者が河村の学生時代の同級生だったことから、それだけで収めてくれたのだ。ただし、その見返りとしてその後の中国食品から広島管区のJR売店へ納める製品は、全て向こう5年間正規価格より7%引くこととなった。かなりきつい合意内容であるが、賠償金に比べるとはるかに安い。
これは河村の弁である。
「なあに、あいつらだってここでいくら損害賠償を要求したって自分の成績には何もならないんだよ。会社にいくらかの金が入るだけで、費用は損金で一括で落としてしまえばそれだけのことだろ。それより向こう5年間安く商材が入ればその利益は自分の成績に繋がる。そんな打算が働いたのさ」
新聞には地元紙の社会欄の片隅に小さな記事が載っただけで大きな話題にはならなかった。日ごろから中国食品が大きなスポンサーで多大な広告宣伝費を使っているからだろう。
「明日の記事ですが、せめて社名はわからないようにしてもらえませんか」
「私たちにもジャーナリストとしての使命があります。全く載せないというわけにはいきませんが、載せ方には工夫しましょう」
「いつも広告のほうで利用させてもらってるじゃないですか」
「ですから、写真も載せませんし工夫しますから、任せてください」
担当者の間でそんなやりとりがあり、こちらも会社の対面を保った。
これで対外的には収まったが、社内では新たな問題が紛糾した。川岸がその営業担当者を首にするといきり立ったのだ。
これには高瀬が真っ向から抵抗した。業務上の事故であり、エンジントラブルが原因だ。本人の責に帰すものは何もない。もしこんなことで首にしていたら人事部や会社への社員の信任は一気に費えてしまう。高瀬は、川岸の「首にしろ」という命令を頑として受け付けなかった。
「首にしろ」
「だめです」
2人の大きな声が部屋中に響き渡った。
「これだけの事故を起こしたのだ。首になるのがあたりまえだろう。出発前の点検を怠ったからだ」
「車を運転する以上、事故からは逃れられません。わが社の業務の宿命です。本人の重大な過失はないじゃないですか。こんなことで首にしていたら社員は1人もいなくなってしまいます」
「これから会社が飛躍しようとする一番大事なときに、こんな事件を起こして何も懲罰がないというのはおかしいではないか」
川岸の考えには別の思惑も絡んでいた。自分は最年少で末席の役員である。存在感や影響力を少しでも利かせておかなければ、保守的な役員を相手に会社を変えたいとするこれからの政策が無視されてしまう可能性がある。そんなときの事故である。
ここで問題を大げさにしておけば営業の失点に繋がるし、人事の見えぬ力をちらつかせておくことは「人事侮りがたし」と他部署への存在感をアピールすることにもなる。最年少役員が末席から這い上がるための戦略である。
「車両事故審査規定に則ってやればいいわけで、人事の懲戒規定の対象ではありません」高瀬はなおも頑(かたく)なだ。
平田は初めて高瀬の心をのぞいた気がした。
“なるほど。これが高瀬の正義か”
ただ、これが物事の理から判断した真なのか、情から出た真なのか、そこまではわからない。人事課長として本人に事情聴取はしているだろうから、そこで情が入り込んだかもしれない。
人事課長が動かなければ懲戒には掛けられない。厚生課長や教育課長が手続きするわけにはいかないし、人事課の係長や主任も課長を飛び越えて懲戒という重い仕事を推すことはできない。この件は川岸が負けた。
この一件は平田にある種の緊張をもたらした。かって平田は事業方針で信じるところを貫きそれが原因で苦汁を飲んだが、高瀬は人の懲罰で正義を貫き一人の人間を救った。同時に、人事の正義と社員からの会社に対する信頼を守り抜いた。
かって、後藤田は「人事は会社の心だ」と言った。心が病んだらおかしな会社になってしまう。すんでのところでこの心は守られた。川岸の精神論とは別のものだ。
「果たして俺にできるか」
高瀬のこの行動が、つぶさに善悪道理を解きほぐし真理に基づいて出されたその信念でここまで頑迷に川岸に抗したものなのか、それはわからないが、平田に高瀬に対するある種得体の知れない警戒心が芽生えた。
この命令がもっと上のトップから出たものならどうか。それでも抗い続けられたか。トップである樋口の判断に対抗できる見識と胆力を持ちえているか。平田は考えさせられた。
「人の正義も度胸一つか」