更新 2009.12.04(作成 2009.12.04)
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第5章 苦闘 29. 願わくば
『願わくば、我に七難八苦を与えたまえ』
山中鹿之助の悲鳴に近い願望である。
毛利軍に主家である尼子氏を滅ぼされた後、島根県の月山・富田城に立てこもり、中国制覇を目論む毛利勢に抵抗し続けた山中鹿之助の“主家を再興するためなら自分はどんな苦労や難儀も耐え抜きます”という、天の三日月への誓いである。
平田は、工場に転出されたときこの逸話を思い出し、妻を誘ってこの月山・富田城を訪ねたことがある。
峻険な自然の地形を利用した天然の要害である。今や城郭はなく、石垣と急峻な山肌に狭い登山道が残されているだけである。途中には鹿之助の銅像も建てられているが、頂上は田んぼ1、2枚程度の開かれた平地に城郭跡の礎石が残っているだけである。
城といっても恐らくは砦といった類ではなかっただろうか。現在我々がイメージする天守を幾重もの曲輪や楼閣で囲む近代の城郭スタイルが現れるのはもう少し後の戦国末期で、織田信長の安土城あたりからである。ただ、近年の研究では岐阜城もその形式を持っていたのではないかと言われているが(世界文化社『日本の城』)。
山中鹿之助は織田信長とほぼ同じ時代を生き、毛利に敗れ出雲を追われた後信長の天下布武の野望の最前線である中国攻めを上手く逆手に取り、秀吉軍と共に毛利と戦ったりしているがついには捉えられ殺されている。
登ってみてわかるのであるが、よくもこんなところに造ったものだと思われるくらいとにかく険しい。造るほうが造るほうなら攻めるほうも攻めるほうである。毛利勢も一度は追い返されている。
中国地方では岩国城も急峻な山頂の山城であるが、錦帯橋辺りからの眺めは美しく気高くさえあり優美に感じられるのに対し、富田城は城郭が残っておらず面影は偲びようもないが、急峻な斜面は原始林に近い荒々しい木々で囲まれており、風雅はないがとにかく堅固であったろうと思われる。
平田も、三日月に誓いながら切歯扼腕したであろうこの山中鹿之助の心境で臥薪嘗胆を心に決めて今日まで来たのだ。
河原なども自身の浮田への反感と、このまま朽ちらせるには惜しい平田の資質を惜しんで何かと気にかけてくれた。ややもすると心が萎え、折れてしまいそうになることも何度とあったが、そんなとき河原や吉田の励ましが平田を支え、今日まで腐らずに耐えてこさせた。
平田はそんな人への感謝の気持ちと浮田への恨みをけして忘れてはいなかった。
その怨念の対象である浮田はここのところジッと静かである。かっての相手構わず皮肉たっぷりに人を虚仮(こけ)にし小ばかにしていた尊大な態度は一変し、業者との遊興ぶりも影を潜めひたすら隠忍自重の日々を送っている。樋口体制になり風向きの変化を敏感に受け止め、何事にも「ごもっともでございます」を決め込み、かっての殷賑ぶりもどこへやら、恥も外聞もかなぐり捨てて時の勢いの中で静かに身を沈めていた。
もし、平田にもこのようなしなやかな身のこなしがもう少し出来ていたら違った人生が待っていたかもしれないのだが、はたしてこれほど起伏に富み味わい深い人生になったかどうか。また、心の呵責を感じずに生きてこられたかどうか。山陰工場の企画業務から外されたとき、捏造企画に手を染めなくて済んだときの晴れ晴れしい気分になったことを思い出しながら、今はホッとしている。
年末も押し迫ったころ、人事異動で不都合を感じた川岸が、
「ヒーさん。係長・主任制度の見直しをやってくれ」と頼んできた。
「はい。いつごろまででしょうか」
「うん、特にいつまでということはないが4月の昇格と整合させられないかな」
「わかりました。やってみます」
「これはかなり議論を呼ぶかもしれないので、焦って拙速にならんようにしてくれ」
「何か特に留意するようなことはありますか」
「いや、俺にもよくわからんが異動を考えるとき何か違和感があるんよ。ストンと腑に落ちるような納得感がどうしても出てこんのよ」
川岸は広島弁独特のイントネーションで、顔を半分歪めながら胸の内を明かした。
係長・主任制度は中国食品の歴史の負の遺物であり、部門部門の思惑と部下に対する思い入れとが歪な形態を生み出していた。
まずその実態は、「係長・主任制度」であるにも関わらず工場部門にだけ“副主任”が存在した。そのためその副主任が他部門に転勤したとき平に降格するわけにもいかず、実力に関係なく必然的に主任に引き上げざるを得なかった。しかし、それも長くは続けられずついには副主任のまま転勤し他部門にいらぬ混乱を起こしていた。
本社部門もその余波で製造部にだけ工場から転勤してきた副主任が存在し、他部との整合が取れていなかった。
もう一点厄介な問題に、冷機技術課の権力意識があった。
中国食品の営業戦略の特徴の一つとして、自動販売機やリーチインクーラーのような冷蔵販売機のメンテナンスを請け負う技術者を独自に養成し、顧客の機器トラブルに迅速に対応する体制を持っていた。そのサービスは、顧客の販売機会の損失と商品の劣化を最小限にとどめることをうたい文句にして顧客との結びつきを強くし、取引を拡大有利に運んでいた。
その技術者が冷機技術課の総勢35名のスタッフで、各営業所や地区販売部に常時駐在し市場を巡回している。スタッフの営業車には無線が備えられており、営業所に掛かってきた顧客からのトラブル内容は内勤者から無線連絡で伝えられ、即座に駆けつけていた。この技術力は中国食品の大きな強みだった。
ところが、販売の最前線で数字に責任を持つ営業所長との間でいさかいが頻繁に起きるようになってきた。