更新 2016.05.24(作成 2009.11.05)
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第5章 苦闘 26. セミナー
平田は久し振りに野木を訪ねた。賞与交渉で忙しかった間、社内の雰囲気や情報から遠ざかっていたため普通に社内の人と話がしたかった。
「今忙しいんよ」野木は平田の顔を見ても手を休めようとせず、口だけで応対した。このころ、野木はにわかに元気をなくしていた。
「何が忙しいんですか」
「うん。ここだけの話だがな。決算が足りん」いつもの野木らしくない覇気のない声が返ってきた。
「だけど、交渉ではなんとかギリギリいけそうだという話でしたがね」
「あのときは10月の実績に11、12月の予算で算出してある。ところが不景気で売れ行きが思惑どおりにいかんのよ。その分足りん」
「どうするんですか」
「マル水に頼んで山陰工場の土地を買ってもらうことになった」
「しかし、バブル崩壊で今は土地の値段はどんどん下がっているんでしょう。買ってくれるんですか」
「そりゃ、まともには買ってくれないよ。そこはいろんなやり方と条件をつけて頼むんよ」
このことは決算の見通しが厳しいことがわかった時点から、樋口がマル水に頼みこんでいた。
しかし、バブル崩壊の余波を被るのはマル水とて同じことである。いかに関係会社の窮状を救うためとはいえ、そう簡単ではない。
樋口は何度も頼み込んだ。
「何としても来年にはファイナンスを実施したい。これは私の中国食品に賭ける夢なんです。今やらなきゃ中国食品はジリ貧になります」
「しかし、バブルが崩壊してこれからの経済環境は厳しくなりますよ」
「だからこそ、今しかないんです。今は売り上げを伸ばそうなんて考えておりません。足腰の弱いところにテコ入れして経営基盤を固め、将来に備えようと考えておるところです。安定的な収益と配当を出せる会社にするには今しかありません。金融バブルが崩壊し融資は厳しくなります。その前にファイナンスを実施して資金にゆとりをもっておきたいのであります。そのためにはどうしても今年の決算でもう少し上積みしておかなくてはなりません。土地の売却益を乗せたいのです」
樋口は、会長に退いた金丸と後任社長の藤野を前に、熱く語った。
「しかし、不動産価格は下落の一途ですからね。今私どもが買うわけにはいきませんよ」
「それはわかります。だからファイナンスが成った暁には私どもで買い戻させていただきます」
「ウーン。そこまでする必要がありますかね」
「会長は、中国食品のことは任せると仰ったじゃありませんか。今がそのときです。なんとかご支援をお願いします」
樋口を中国食品に出すとき、「中国食品は君に任す。好きにしてよい」と言ったことを担保に出されては金丸も苦しい。金丸も藤野も樋口の熱意に押され、渋々受け入れることにした。
「わかりました。今は無意味な土地転がしは監視も厳しいですから、総務の者に対応策を検討させましょう」
この合意を得て中国食品から総務部長の新田を中心にしたタスクフォースがマル水に派遣され、土地移管のスキームが練られた。
平田が賞与交渉に没頭している間に、片方ではそんなことが進められていた。
新田らがまとめ上げた計画は、
「平成2年度中にマル水の米子工場を新築し直す目的で、中国食品の山陰工場の土地を坪20万円、総額30億円で一旦買い上げ、ファイナンスが成功した暁には、金利分5%を上乗せして再び中国食品が買い戻す」というものであった。土地の簿価は25億、坪単価16.6万円であったから、およそ5億の売却益が特別益として計上できる。この金額は賞与の1カ月分以上の額である。賞与交渉で多少係数をケチったくらいではとても捻出できる額ではなかった。
1982年のバブルが本格化する前に入手した土地である。バブルが崩壊したとはいえ、それくらいの含みは十分あった。
建屋や製造機械類については利用できるものであればそのまま再度売却を検討するが、工場建設の段階で後日検討することとなった。
こうして中国食品は平成2年度の決算を増益で締めくくった。
そんな折、平田のもとに1通のセミナーの案内が届いた。それは楠田丘氏の「職能資格制度の設計と運用について」という内容で、箱根の某ホテルで2泊3日のかなりきつい講習だった。
人事部に赴任してきたものの、何も準備も予備知識もなくどうしたものかと迷っていた平田には一条の光明だった。
人事制度研究会が発足して既に5年が経過している。西山が担当していたとはいえ、もはやなんとか形にしなければ人事の面目が立たない。平田の気は急いた。
平田は、課長の高瀬にセミナー参加を願い出た。
「今は予算も厳しいし、それに今更そんなことは勉強しとるやろ」と断られた。
「西山さんでも長いことかかってできなかったことをそう簡単にできませんよ。それに、これは来年の1月ですから経費で落ちるのは来年になります」
「それくらい自分で勉強してくれんかね」やはり取り付く島はなかった。
しかし、平田はあきらめきれなかった。それは職能資格制度導入プロジェクトが発足したとき、当時担当の西山らがこうしたセミナーに参加し、プロジェクトメンバーに勉強会と称して体験を報告していたので、自分も参加したいと密かな願望をもっていた。直に聞くのと人が斟酌したのを聞くのとは重みがちがう。それに一人でいくら本にかじりついても所詮一片の知識にすぎない。
私は、こうした新しいシステムや仕組みを研究したり勉強したりするとき、その人の話を聞くのが一番いいと思っている。
本で勉強するのもいいが、それを実践のビジネスに生かすまでその精神、真髄を読みこなし身につけるにはかなりのエネルギーと努力が必要だ。
自分の中にそれ自体を使いこなす技量や技法が備わっていて、それ自体を単なる知識として吸収すればいいのであれば本を読めばいい。
しかし、新しい考え方やそれに基づく仕組みは本を読んだだけではその技量は身に付かない。その証拠にあることについて勉強しようとしたとき、複数の本を読むであろう。それは本ではどこがポイントであったり、どこが要点なのかがわからないからである。本はその内容記述が平坦だからである。人はそれを探すために何冊も読みその重なったところから推察して要点を掴んでいくのである。
その点セミナーに参加することは講義の内容に抑揚があり、要点やポイントを要領よく教えてくれる。セミナーの良し悪しは、そこのところをいかに参加者にうまくわからせてやれるかであろう。その精神や思いをいかに伝えられるかがセミナーの良し悪しである。
経費節減もわかるがわずかな額である。それで理解の深さ、正確さと時間の節約が図れることを思えば断然セミナーへの参加をお勧めする。時間の節約が大きい。