更新 2016.05.23(作成 2009.02.25)
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第5章 苦闘 1. 小学と大学
平成2年、平田が組合役員を降りて2年目の夏が巡っていた。このころになると平田もある程度の開き直りと気持ちにケリを付けることができて落ち着きを取り戻していた。
“後藤田専務ですら何らかのわだかまりはあったのだ。まして俺なんか自分の選択した道じゃないか。なにをグチグチしとるんや”自分にそう言い聞かせ努めて元気に振る舞った。
釣りにスキーとアウトドアを楽しみ、夜は河原から紹介されたたくさんの本を読んで英気を蓄えた。枕元には常に10冊くらいの本を積んでおき、毎日布団にもぐりこんで寝ながら読むのがクセになっていた。そうしなければ落ち着かない。のめりこむと夜中の2時3時まで読みふけることも珍しくなく、そのため妻からクレームがついた。スタンドが眩しく、ページをめくる紙擦れの音がうるさくて眠れないのだそうだ。
「私は隣の部屋で寝ます」
とうとう別居生活になったが、平田も気を使わなくていいし、妻にもゆっくりと休んでほしいからそのほうがありがたかった。
浅学非才の私ごときが、本の紹介などおこがましいが、最も心に残った一冊だけ紹介したい。
*『喜怒哀楽の人間学』 (1978年) 伊藤 肇(著) PHP研究所
平易で誰にでもわかりやすく書かれており、帝王学と言おうか人間学の入門書のような一冊である。
若い人に何かいい本は?と聞かれたら迷わずこの本を紹介する。
内容は、私が講釈するよりもまず、皆さんご自身に読んでいただきたい。
他に、歴史物は読むべきだ。河原からの紹介の中には中村天風氏の著書など、私にとっては少し難解というか重いものもあった。
工場での生活は相変わらずである。浮田への義理立てでほとんどの者が空々しい会話を投げかけてくるだけで、心のこもった生きた会話はほとんどなかった。それでもごくわずかな友人との交流があるだけで平田は救われていた。
そんな中で夏休みに入ったばかりのある日、平田は自分の働く姿を見せておこうと子供たちを工場見学に誘った。これはある本に、親の働く姿を子供に見せなさいとあったことを実践するためだ。
これまで、浮田と必死の論戦で神経を擦り減らすような日々を送り、組合では会社正常化に向けて副委員長、賃金部長を務めたため、0からの勉強でとてもそんな精神的ゆとりはなかった。
今組合を降り、河原に説得されたことでやっと「なるようになる」という開き直りの気持ちを少しは持てるようになった。浮田や工場長の浜瀬の動きも気にならなくなり、初めて穏やかな気持ちで子供たちのことを考えるゆとりが生まれた。
子供たちも上は6年生、下は3年生になっていた。社会のことも少しはわかるようになっていた。自分のことだけを考えていた年頃から、大人になる意味や社会のことも学ばなければならない入り口に差し掛かっている。
“ちょうどいい頃だ”平田は子供たちだけで2時に会社に来るように言い聞かせた。
会社では、総務の女性社員に事情を話し案内してくれるように頼んでおいた。
中国食品では、一般の工場見学を事前予約さえすればいつでも受けていた。社会とのつながりや消費者との関係をより身近なものにする狙いだ。そうした会社姿勢が子ども会や学校の社会見学活動で、ひっきりなしに見学者を呼んでいた。
一般見学通路からの見学だが子供たちには新鮮だったらしい。会社での父親の姿に働くということを肌で感じ、苦労をわかってくれた。
家に帰ると「お帰り」と走り出てきて、
「ねぇ、お父さんはあそこで何をしているの」「どうしてそんなことするの」「どんな役に立つの」と矢継ぎ早に質問責めしてきた。
それまでは、「お父さんは中国食品でいろんな製品を作っている」というだけの理解だったのが、「フーン、大変なんやね」「難しいことしとるんやね」「こんなに暑いのに頑張っているんや」「お父さんありがとう」と言ってくれた。
子供にとって親父とは、家にいるときのイメージしかない。テレビを見て、ごろごろと酒を飲み、休みの日はブラッと釣りやゴルフやパチンコに行く。たまには一緒に遊んでくれるが大方は威張り腐って鬱陶しいだけの存在でしかない。それが工場見学で本当の親父の姿を発見したのだ。平田の狙いは大成功だった。
「工場にはたくさんの人がいただろ。大人になるとああして一生懸命働かなくちゃいけないんだ。それぞれ役割は違うけどみんな一生懸命働いて力を出し合わないとお父さんの会社の製品はできないんだよ。一人でも手を抜いたりサボったりしたらいいものができないんだ。だからみんな一生懸命に働いていいものを作ろうと頑張っている。いいものを作るとお客さんが喜んでくれるだろ。そうするとたくさん売れる。これはどこの会社も同じだ。お前たちも大きくなったらしっかり働いて世の中の役に立つんだよ」
せっかくの機会だ。平田は子供たちに大人になる心構えを説いてやった。これを言い聞かせておかないといい大人になりきらない。
人間の学びには2つあるそうだ。孫引きの話で申し訳ないが。
1つは、早寝早起き、あいさつ、整理整頓などの自分の身の回りのことを自分でする力や、盗みや暴力など社会のルールやマナーを守ることなど、人間として自立し最低限の決まりごとを守り自分を律していく力を付けること。これを小学(中国の古典より。失礼ながら孔子か老子か失念している)と言うそうである。
最近の若い人たちの間で、電車や街中でも他人の迷惑を考えない傍若無人の振る舞いが目に余る。これなども小学を学んでいない人たちである。今の親は子供にこれを躾けない。学校ではモンスターペアレンツなるものが現れて、給食費を納めなかったり、自分の子供には掃除をさせないでくれとクレームをつけたりしているとか。社会性を学ぶための学校ではないか。これでは何のために学校に行かせているのかわからない。こんな親は子供が勤め出しても会社に子供の世話を焼きにいくのだろうか。そんなふうに育てられた子供が世の中で役に立つとはけして思えない。将来の厳しい社会を生きる知恵と自ら人生を切り開く逞しさとどんな困難にも耐え抜く我慢強さをしっかり身に付けさせる。それが真の愛ではないか。子供はそんなに軟じゃない。結構逞しくしたたかだ。そんなに過保護にしなくても大丈夫。
もう1つは、社会全体を考えたり人の上に立つための勉強である。人よりも高い教養や技能、人間性を身に付け、人の上に立ち世の中をリードするための勉強である。それを大学(同)と言うのだそうだ。
このどちらも今の世の中は壊れていないだろうか。ニートやフリーターなどと称されて定職に就かない人が増えているようである。それも一つの生き方、個性の発揮と多様性に名を借りた甘えではないか。
小学をしっかり学んでないから社会で自立できない。
大学を学んでいないから世の中の役に立つ人間になりきれない。
どちらも真剣に子供のことを考えているとは思えない親の歪んだ愛情のなせる業である。