更新 2009.01.23(作成 2009.01.23)
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第4章 道程 27. 時代が変わる
西暦1989年、昭和64年の年が明けた。と思うのも束の間。お屠蘇気分も抜けやらぬ1月7日、昭和天皇が87才で崩御された。大正天皇が早くに亡くなられたから若くして天皇に就かれ、在位年数が62年と最も長い天皇だそうだ。
2月24日、大喪の礼が新宿御苑で行われ、日本中が喪に服した。当日は公休日となり、テレビからCMが自粛され日本中の放送局が報道特別番組を組んで大喪の礼を報じた。
葬場殿では皇室としての儀式が恭しく執り行われ、その後国の儀式である「大喪の礼」が行われた。
ブッシュ大統領やミッテラン大統領など海外百数十カ国の代表が参列し、国内からは三権の長、都道府県知事、各界の代表などが参列した。
儀式が終わると霊柩は武蔵野稜に納められた。これも皇室としての儀式だ。
中国食品も天皇崩御の日から半旗を掲げ、賑やかな行事は差し控えて弔意を表わした。
こんな経験は一生の間に1度か2度しかない。人間は同じ速さの時間を生きるからだ。平田は食い入るようにテレビに見入った。
年号が変わり、平成の御世となった。時はバブル経済の絶頂期であったが、この年を最後に崩壊し日本経済はデフレスパイラルに陥っていく。
日本がバブルの終焉を迎えようとしていた1989年11月、地球の真後ろでは長年東西冷戦の象徴的存在だったベルリンの壁が崩壊し、翌1990年東西ドイツが統一された。
さらにその翌年バルト3国の独立により69年間続いたソビエト連邦が崩壊し、東西冷戦に一応の終止符が打たれた。
このように80年代終盤から90年代初頭は世界の政治経済の枠組みが大きく変わる一大転換期となった。
市内に移転したばかりの中国食品も、平成の御世の誕生と共にまさに新しい時代を羽ばたこうとしていた。
新社屋の賃貸料は年間1億9千万円と決まった。相場の上限に近いが新築であることや、建設にあたり中国食品が情報関連の設備の配置をしやすくするカスタマイズをオーダーしたからである。
ひところならこの経費はとても負担しきれるものではなかったが、今や目的のためならこれくらいの経費は積極的に取りにいけた。
昭和63年の決算は樋口が予想したとおり、経常利益段階で31億4千万円を計上した。しかし、今年度の利益計画はさらに3割増の40億だった。
樋口は中国食品の更なる利益拡大を図る一方で、この利益をもとに企業として何ができるか、何を成すべきか。自分の企業人としての完成を目指そうと考えた。
「赤字からの脱却、企業体質の改革、これらがボトムアップでうまくいったためしはない。考え、試行錯誤し、アイデアを捻り出す猶予がない。打つべき手を、強力なリーダーシップのトップダウンで即断即行しかない。この打つべき手こそが俺の経営手腕の見せ所あり、中国食品の再生への鍵なのだ」
そう思ってこの3年間ガムシャラにそれを推し進めてきた樋口だった。そして経営危機を脱した今、これからの新たなビジョンを示す時を迎えていた。これからが本当の経営手腕の見せ所だ。
経常利益31億円を提示した株主総会は驚愕と賞賛の拍手で終わった。
しかし、樋口はいつまでもそんなことに浮かれていなかった。街では人々が春の宴に酔いしれるころ、樋口は経営企画室に指令した。
「来年度の事業計画を編成する秋までにその基となる中期経営計画を策定せよ」その中に自分の考えを織り込むつもりだ。
中国食品では今まで中期経営計画など策定したことがなかった。せいぜい翌年の経営方針、事業予算くらいしか策定してこなかった。特にここ数年は赤字だったから、目先どうするかで精一杯だった。
「当然そうあるべきだ」と、この指令に社内中が色めき立った。むろん自分の部署にも関わってくる。以前から中計やビジョンが必要だと唱える者は多かった。しかし、どうして作ったらいいかノウハウもなく、一から勉強しなくてはならないから面倒なことや、業績がいまいちパッとしないことで画餅に終わる可能性があり経営企画室が二の足を踏んでいたのだ。
樋口の指示でようやく重い腰が上がった。
社内中が中計の作成にてんやわんやしているころ、平田はただ黙々と製造業務に勤しんでいた。もはや力むこともなく、会社や工場の方針に惑わされることもなく、淡々とした気分で業務に就いていた。
そんな折、突然衝撃的訃報が飛び込んできた。それは、組合の新委員長坂本からだった。
「ヒーさん。作田さんが昨日の夜亡くなられました」
「なに」平田はそれ以上の言葉が出なかった。
“ついこの前まで一緒に苦楽を共にしてきた仲間じゃないか。あんなにエネルギッシュに活動していたのに”信じられなかった。
死因は急性白血病だった。
葬儀には旧三役全員が参列し、平田は坂本と一緒に出かけた。
坂本は委員長として、現役組合員の死に対し弔辞を述べた。過去の活躍これからの期待を切々と惜しみ、多くの哀悼痛惜の涙を誘った。残された3人の男子はまだ中学生が最年長だった。どの顔も未だ現実を受け入れられないようで空ろにしていた。痛ましい限りだ。
帰りの電車の中で坂本はポツリッと言った。
「ヒーさん。歴史を本気で変えようとした者で最後まで生き残ったものはいませんからね」
この言葉はやけに平田の胸をえぐった。
「この世に本当に要らなくなったら天が命を召していく」
つい先日、河原が言っていたことが現実として起きてしまった。偶然にしてもあまりに残酷な運命である。時の流れはやはり誰か犠牲を飲み込まずにおかないのか。
坂本竜馬や吉田松陰、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作など維新の先駆者たちの名前を思い浮かべながら、
“作田さんもその役割を終えてしまったのか。ただそれだけの役割だったというのか。それもまた寂しすぎないか。それとも生まれ変わった中国食品にはもはや邪魔な存在なのか”平田は、胸が締め付けられるようだった。
“それじゃ、吉田さんや豊岡さん、俺はどうなる”言葉にしなかったが、自分も辞めようかと迷っていることを、“形は違うが俺も生き残らない例えになるのか”と置き換えて考えていた。
しかし平田は、目を覚ますように強く頭(かぶり)を左右に振り、
“天が召すまでその意思を待とう”強くそう言い聞かせて、気丈に返った。
「ヒーさん、今日は飲みましょうか」
2人はもうじき梅雨に入る生暖かい風の街で作田を偲びながらしみじみと飲み明かした。
平成元年6月初夏だった。