更新 2008.09.05(作成 2008.09.05)
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第4章 道程 13. 財務戦略
樋口は嬉しそうだが、居合わせたみんながあっけに取られていると、
「社員持ち株制度を立ち上げたばかりで、社員には申し訳ないが決して損はさせない。安心しろ。2年後には倍になっている」と付け足してきた。
樋口は、長年の経験から中国食品の経営状態を2年後にはどの程度まで持っていける、そうすれば株価はどの程度まで反応するだろう、そんな見通しを持っていたのだろう。経営者として、会社の収益や成長性と株価の動きを実際に体験して肌で感じた者にしかわからない読みだ。
ただ、平田には意味がよくわからなかった。何が申し訳なくて、何に安心したらいいのか。恐らく他の者もわからなかったのだろうが、知った顔で澄ましていた。しかし、好奇心旺盛な平田は放っておけない。
「すみません。どういう意味ですか」申し訳なさそうに尋ねた。
「おい。野木はいないか」そういって辺りを見渡した。
川岸がいないことを告げると、
「そうか。後で聞いておくんだな。『安心しろ』という意味まで聞いておくんだぞ」面倒だったのか、平田の質問には答えてくれなかった。平田も自分がその場の中で出すぎていることを意識してそれ以上は踏み込めなかった。
今日の樋口はやけに機嫌がいい。ファイナンスが上手くいったからだろうか。饒舌にしゃべりまくった。機嫌がいいときに必ず出るのが、
「いいか、男というものはな、ケツの穴をキューッと締めとかにゃいかん。ヘナヘナと陥落したらいかんのじゃ」だった。出入り業者と近すぎる役員に対する牽制と教育の意を込めて、大げさな身振りで皮肉たっぷりに言い募った。
平田は「社員に申し訳ない」と「安心しろ」の意味が気になってしょうがない。
“申し訳ないが安心するようなどんな爆弾が隠されているのだろうか”翌日の昼休み、ワクワクしながら早速野木のもとを訪ねた。
「お久しぶりです」
「オーッ、元気でやっちょるかね。忙しかったのか」珍しい平田の来訪に野木は嬉しそうに驚いた。
「忙しいのは課長のほうでしょう。私は相変わらずですよ。賞与交渉なんかありましたけどね」
「ヒーさんが顔を出さんから寂しかったよ。コーヒーでも飲むか」
「アッ、買ってきましょう」平田は野木が出した小銭を握って自動販売機まで行ってきた。
「昨日、樋口社長と飲んだんですよ」平田はコーヒーを啜りながら小声で話した。
「うんそうか。よーしゃべるやろ。それでいい話になったかね」
「ええ、いつも興味深い話をされます。それでですね。今日はチョット教えてほしいことがあって来たんですよ。45億のCBを発行するんだそうですね」
「そうなんよ。すごいだろ。俺も驚いたよ」
「だけど、そんな金がいるんですか。いくら利息が安いとは言っても借金は借金ですよね」
「俺はな、この話を聞いたときさすがだと思ったよ」
「へー、そうなんですか」平田は、案に反して野木の反応が自分の思いとは真反対だったのでチョット不満だった。
「事業に戦略があるように財務にも戦略がある。本来ならば山陰工場を造ったときにこれをやらにゃいかんかったと思う。山陰工場が本当に事業として必要だったとしての話だよ。それが本当の経営だと思う」
平田は、野木が何を言いたいのか、聞き漏らさないように必死で聞き入った。
「財務を無視しての経営はありえないからな。今のわが社は借金に埋もれて身動きが取れん。なんせ山陰工場を造るため全てのものを抵当に入れて借金しとるから、なにかしようと思っても打って出る金がない。山陰工場の廃止は決まったけど借金も一緒に消えるわけじゃないんだ。財務内容まで回復するわけじゃない。垂れ流しの赤字がようやく止まるという程度にすぎない」
野木には財務に対するしっかりとした自分の持論や流儀がある。それに照らして考えると、山陰工場建設にまつわる一連の財務政策は行き当たりばったりの弥縫策に見えるらしい。
そもそも、この投資に一人反対した新井常務がその気にならなかったため、本気で資金計画を考えなかったからだ。
「こういう大きな事業計画は、よほどしっかりした資金計画がなければならない。一時的間に合わせの運転資金じゃなく、長期適合の良質な資金が必要だ」野木は強く言い切った。自分ではどうにもならないもどかしさを一人悶々と抱えていたのか、今日は一気に平田にぶつけてきた。自分の考えを聞いてほしいようだ。
「今ガーゼを当ててやっと出血が止まった。正確には止まるところだ。しかし、傷が治ったわけでも体力が回復したわけでもない。足りない血が自然にできるのを待っていては、貧血で体のほうが先に参ってしまう。時間はない。足りない血は輸血で補充しなければ体力の回復はおぼつかない」野木は例え話を交えてなおもわかりやすく平田に説明した。
「なるほど、そうですか。借金は残ってますもんね」
「そうなんよ。会社はよく耐えていると思うよ。一歩間違うと不渡りかもしれん」
「本当ですか」
「まあ、今すぐそこまではないがこの状態が長く続くとありえない話じゃない。会社の全ての価値が抵当に入って工場の土地や機械に化けとるんやから財務的には本当にきつい状態や」
資本金20億円、年間売上高500億円、長短の借入金総額210億円、今年度経常利益見込み▲20億円。これがこの時点の財務状況だ。
「しかし、その借金体質の上にさらに借金するわけでしょう。それはいいんですか」
「そこが今までと違うところなんよ」
平田は意味がわからず、「うん」とうなずくだけだった。
「今回は転換社債だ。社債が株式に転換されると資本金になる。そういう株主資本の増加を伴う資金調達をエクイティファイナンスという。自己資本が充実して流動性が確保されるわけだから、財務的には改善されるわけだ。根本的な違いは借入金は返さなくてはいけないが、資本金は返さなくていい。そこが大きな違いだ」
「なるほど。そういうことですか。工場を閉鎖しても借金が減るわけじゃないから資金繰りは窮屈のままなんですね。だから資本を充実して資金を潤沢にしようと。その方法としてのCBだというわけですね」
「そういうことよ」
「ウーン、すごいことですね。一気に45億、資本金の倍ですもんね」平田も背景を理解すると飲み込みは早かった。
「いつなんですか」
「来年の1月20日に振り込まれる。これがいつ株式に転換されるかわからんが、転換されるとマル水食品の持分比率が下がるから、第三者割当増資でマル水に別途出させることも考えているみたいだぜ」
「ヘーッ、そうなんですか」平田は目を丸くした。
「ここまではわかりましたが、更に社長はこういうことを言われたんですよ。『社員持ち株制度を立ち上げたばかりで、社員には申し訳ない』って。これはどういう意味ですか」
「ホー、さすがやね。そこまで気を配っておられるんやね」野木はあらためて樋口を見直したようだ。