更新 2016.05.19(作成 2008.08.15)
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第4章 道程 11. わかっちょる
樋口は就任後初めて組合幹部と一席を設けた。山陰工場の閉鎖のことや、なによりも経営再建についてのデザインを語りたかったのだろう。来週には旧盆を迎える8月8日の暑い日だった。
樋口は決してスマートではない。体型もズングリムックリとしており、一見野暮ったい感じである。話しも雄弁ではなく、どちらかというと訥々(とつとつ)としたしゃべりである。しかし終始何かをしゃべっている。しかも滑舌は悪く聞き取りづらい。それは樋口がヘビースモーカーでいつも口の中にタバコの煙を含みモゴモゴと吐き出しながらしゃべるからである。たまにフーッと吐き出したかと思うとゴホッゴホッとむせぶ。こりゃーいつか肺癌になるわ、と誰もが思った。改まった席ではもちろん違うが酒が入るといつもこうだった。
だが、話のスケールは経験の豊かさから世界規模に大きかった。スペインではこうだとか、地中海の魚はこうだ、ブラジルのコーヒーはどうだ、と面白おかしく飽きがこない。中でも地中海のタコの話は殊更面白かった。
ヨーロッパのほうでは、タコは悪魔の使いだとか言われて食料にしないのだそうだ。そのせいかやたら捕れる。そこで安く仕入れて日本で売れば大儲けができると踏んだ樋口は、日本に送った。ところが日本ではさっぱり売れない。食べてみるが味も大して変わらない。よくよく見ると、日本のタコは1本の足に吸盤がジグザグに2列並んでいるが、地中海のタコは1列なのだそうだ。食にうるさい日本人はこれを嫌って全く売れないのだそうだ。本社工場では仕方なく、細かく切り刻み冷凍たこ焼きの材料にしてさばいたそうである。
「イヤー、怒られた怒られた。まぁ若気の至りだな。遠くヨーロッパにいたから、そのうち見返してやるわぃ、てなもんだな」今となってはちょっとした勇み足程度にしか思っていないようだ。
樋口の話はそんなエピソードを織り交ぜながら地球を1周し、そして本題に戻る。決して脱線することはない。
「山陰工場はつぶすことにした。組合もオルグに行ってくれたそうだな。ご苦労さん。見通しが甘かったな。軌道修正もできないようだったから交代してもらった」前トップ2人のことを言っているのだろう。
「部下が悪いことをすれば上司が管理監督責任を問われるのは当然ですが、本人が一番悪いでしょう。本人はどうなるんですか」と、平田は尋ねてみた。
樋口は、ジロッと平田を睨み返した。その眼光の鋭さに平田はドキッとした。
「若造が偉そうに。俺の政策にケチをつけるのか」と言わんばかりだ。
しかし、平田もそこまで言った手前目を逸らすわけにはいかなかった。平静を装って見返した。
「わかっちょる」樋口は顎を突き出し、怒気を含んで言い放った。
「お前たちの言いたいことは全てわかっちょる」そんなふうに取れたが、平田は、本当にわかっているのかちょっと不安だった。
「悪いことをすれば首だな。そんなことは当たり前だ。今回は誰も首にはなっていない。経営能力がないから交代してもらった。それだけだ」
“なるほど、そういうことか”平田は経営判断という世界を見たような気がした。そして、「今回は」という言い方にかすかな期待をつないだ。
樋口が、“俺の時代に変なことをしたら、今度は許さないぞ”というタブーを言外に言っているように思えた。
そんな意識があるのかないのか、樋口は酒と自分の話に酔っていた。
「男というものはな、ケツの穴をキューッと締めとかにゃいかん。サプライヤーというものはあの手この手で脇の下をくすぐってくるもんじゃ。そのたびにケツの穴をキューッと締めてヘナヘナと陥落せんようにせにゃいかん」
組合にというより、そこに居合わせた会社の人間に言い聞かせているようだった。
“なんだ、そうか。全てお見通しじゃないか”平田はやれやれだった。
「浮田一人くらいどうにでもなる。泳がせておけばいい。これからはそんなことさせない」という自信が汲み取れた。
「まあ、そんなに目くじらを立てなさんな」たしなめるように平田の顔をのぞいた。
組合は、工場閉鎖が決まったとき浮田の責任追及に色めき立ったが、樋口の話はそんな時限をはるかに越えていた。これで組合の責任追及は封じられた格好になった。さすがとしか言いようがない。言い方とか理屈とかではなく、これこそ樋口の器の大きさではないだろうか。多くを語らずともそこに居合わせたみんなを押し包み自分の意思を押し通す。これこそカリスマ性だ。
樋口は野太い声で一人しゃべりまくる。さりとて濁っただみ声ではない。怒鳴ったり大声を出すわけでもなくボチボチとしゃべる。酒とタバコで体はユラユラと揺れる。しかし決してつぶれない。酒豪だ。その姿は時間という流れをコーディネートし、一人悦に入ってる指揮者のようだ。
一日の酒宴を、この時間帯ではこう話し、ここではこんな話をしてここにきたらこんな話で締めくくる。そんな起承転結をあらかじめ心得ているかのような展開である。
左手にコップ、右手にタバコ。灰皿に揉み消したかと思うとその手で次の新しいタバコを取り出している。左側に座っている者はコップが空になると酌をし、右側に座っているものはライターで火をつけてやり、交互に擦り寄っている。なんだかシーソーのように見えて平田はおかしかった。
「これからわが社は見違えるように良くなっていく」
みんながどうしてですかという顔で樋口を見つめると、
「任しとけ。何が良くて何が悪いか、それがわからぬようでは経営者ではない。株は今いくらしている」
「260円前後です」川岸が答えた。
「うん」と一旦うなずいたが、
「それがいかん。もう今日の相場は終わっているのだから、今日は263円ですと言わにゃいかん」既に知っていて聞いたのだ。
「はい。すみません」川岸は神妙に謝った。
「株価というのは世間様のわが社に対する評価だ。我々の日々の働き具合、仕事振りがシビアに評価されておるのじゃ。わが社の社員たるもの、常に株価を意識して仕事をせにゃいかん」
“なるほどなー”上場はしているものの、こんなことを言った経営者は一人もいなかった。自分たちは井の中の蛙で狭いところしか見ていなかったのかもしれない。平田は“やはり会社が変わり始めているのかもしれない。この経営者を迎えて、自分たちの活動は間違っていなかった”とつくづく思った。
中国食品の株価は総会前は200円を切っていたが、樋口が社長に就任するとそれだけで経営再建を期待した買いが入り、ジワジワと3割近く上昇していた。これはトップに対する評価の現れだ。“組織は人である”の格言はここにも生きていた。
「みんな今わが社の株を買うんだな。他の株は見えないがわが社の株は一番よくわかるじゃないか」
「……」みんなが乗り切らない顔をしていると、
「俺を信じてないのだな」そう言ってみんなを嘗め回した。