更新 2007.12.05(作成 2007.12.05)
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第3章 動く 42.不首尾
後藤田は自分の目と耳を疑った。
目の前にいるのは紛れもなく信頼を寄せていた吉田だし、その吉田が、首になってもいいじゃないかと悪びれもせず真顔で言っている。
“確かに会社を何とかしたいのは同じ気持ちだし、吉田らにはその情熱を失わずに頑張ってほしい。しかし、自分も進退を覚悟しなければならないのか。吉田らはそこまで考えていたのか”自分が考えを詰めきれていなかったことを悔いた。
しかし、不思議と腹が立たない。吉田の気持ちが自分を憎くて言っているのではなく、純に会社のことを思って言っているだけとわかるからだ。
「首にはなりませんよ」吉田は、後藤田の気持ちを弄ぶように今度は真反対のことを言った。
「どうしてそんなことわかりますか」
「先に動けばなりません。マル水が先に気付いて動きだせば、一蓮托生で経営の責任を取らされるでしょう」
「いや。今私が動けば同じですよ。一応私も経営の端くれですから、‘それじゃあなたは何をしてたのだ’とやられるでしょう。それほど甘くはないよ」
「でもさっき、私なら金丸社長に話すとおっしゃったじゃないですか」
「やり方としてはそれしかないが、時期は今じゃない」
「それじゃ、専務はあとどれくらい待つつもりですか」
「わかりません。2年か3年か。人が動く時というのは、周りが自然とその道しかないように整って、背中を押されるものです」後藤田らしい、無理押しや争いを避ける温厚な考え方だ。
「そんなに待てませんよ」
「仕方ありません。私にも自分の信条があります」
それを最後に沈黙が続いた。吉田はテーブルの上のビールの入ったコップをつかんだまま、じっと一点を見つめて動かない。
後藤田も、命を掛けきれない不甲斐なさと経営の責任という自責の念が、渦を巻いて自縛していくようだった。しかし、内紛のようなことになったら世間の笑いものだし、双方が傷つくだけだ。そんな分別が無謀ともいえる吉田の提案を辛うじて押しとどめていた。
「どうでしょう、専務。私が金丸社長に会うことはできませんか。紹介してください」吉田は必死だった。なんとしても後藤田にウンと言わさなければならない。
後藤田は、「私が?」と言いかけて言葉を飲み込んだ。同時に、吉田を金丸社長に紹介するシチュエーションやリスク、成否等をとっさに考えた。
“吉田は何を言うだろうか。経営責任はトップだけに絞るか、経営全体の責任にまで言及するのか。組合を紹介する自分は、組合と結託してクーデターを起こしていると取られないか。どんな時に、どんな理由で仲介すればいいか”そんなことが電光のように頭の中を駆け巡った。
「専務が難しいようでしたら、私ならいいでしょう」
「いやいや、それでも大したもんだよ」後藤田も、そう唯々諾々と安請け合いするわけにはいかない。むしろそのほうがリスキーに思えた。
なかなか煮え切らない後藤田に、吉田はさらに食い下がった。
「専務、いくら長生きしたって“なんにもセンム”でいるのじゃ意味がないじゃないですか。誰も尊敬なんかしませんよ。この会社の窮状に立ち上がろうともしない。そんなふうに思われたままでいいんですか。それよりも、専務がこうして救ってくれたと、感謝と尊敬でいつまでもみんなの心に残ったほうがどれだけ価値がありますか」
「……」
「そりゃ、専務が改革の旗頭になって先頭に立ってやってくれるのが一番いいです。だけど、それが叶わないのであれば私を人身御供に使ってください。お願いします」腹の中から絞り出すような声で、深々と頭を下げた。
「そりゃ気持ちはわかりますが、さっきも言ったように私が動くということは会社を辞めることに繋がります。私にも生活があるんだよ。あなたたちと違ってこの年だからね。転職というわけにもいかないでしょう」
「何を言ってるんですか。もう年金が出るじゃないですか。長い間専務でこられたから退職金だって私たちの何倍も出るでしょう。晴耕雨読じゃないですが、悠々自適に過ごされたらいいじゃないですか。最後にいい仕事をして、満ち足りた気持ちで過ごせたら幸せじゃないですか」吉田は本気でそう思っていた。
「まあ、そう結論を急がなくてもいいでしょう。会社の状況や組合の立場、社員の生活など総合して考えたいし、ほかの手立てがあるかもしれない。選択肢を広くして考えましょう。それに私の生活、いや人生そのものかもしれないが、それも考えなければなりません」
「そんな悠長な時間はありません」吉田は、先日逆算した日程を説明した。
「そんなわけで、10月中にマル水食品の意思決定がされなければなりませんから、専務には遅くとも8月中に行動を起こしていただかなければ間に合わないんです」
後藤田は、吉田がもう既にそこまで考えていることに驚いた。“先手先手を取られて、遅れを取るわけだ。もっと気を引き締めなくちゃ”自分に言い聞かせた。
「と言われても、今日の今日に結論は出ませんよ。それに、引き受けるとしてもいきなり紹介するわけにもいかないでしょう。なにか取っ掛かりがいります。まあ、もっといろんなことを考えましょう」
吉田は更に何度も「お願いします」と頭を下げたが言を左右され、やんわりとかわされた。もはやそれ以上の進展はなく、吉田の後藤田工作は不首尾に終わった。
吉田は、自分の力不足が悔しかった。
“少し来るのが遅かったか。山陰工場休止の起案は手駒がいない。取締役会での小田社長解任決議案提出は賛同者不足だし、後藤田の生き方に反すると言う。後藤田の金丸社長への直訴は、後藤田自身の進退が掛かるし時期尚早。自分を紹介することも切っ掛けがない”吉田の考える全ての手が封じられた。
後藤田のマンションを出た吉田は、八方塞がりに唇を噛みしめ肩をすぼめて行きつけの居酒屋に入った。飲まずにおられなかった。
一方、吉田を見送った後藤田も妙に頭が冴え、眠る気になれなかった。
ブランデーグラスに愛用のヘネシーを注ぎ、マンションの窓から夜景を見下ろしながら吉田との話を思い返した。
“吉田君は、『首になってもいいじゃないか』なんて、厄介なもの言いを残していったもんだ。たとえ組合の委員長とはいえ、一介の社員ではないか。それが、まがりなりにも経営のナンバーツーに対して首になってもいいじゃないかと言う。普通は激昂するほど心外なことだろうに、なぜか腹が立たない。むしろ悩ましい。言外に、『正義に燃えよ。使命に立ち上がれ』という叫びが聞こえるからか。不思議な気分だ。果たしてどうするか。男の生き様の問題だな。しかし、生活が……。いや、生活は彼が言うようになんとかとなるだろう。それくらいの貯えはある。問題は辞めた後どう生きるかだ。彼が言うような悠々自適なんてそう簡単に割り切れることじゃない。人は社会との係わりがなければ生きていけないのだ。会社に勤めているからそれがあるんだよ。会社を辞めて生きがいをどこにおく。人や社会との係わりをどう構築するのだ。そんな異次元の世界に急に飛び込むなんて”そう考えると、後藤田はたじろいだ。そして、ただの人として生きることの意味をそろそろ考えなければならない年齢に来たことを改めて知った。
“肩書きを取った裸の人間は、どう生きる”