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治外法権

更新 2016.05.18(作成 2007.11.22)

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第3章 動く 41.治外法権

後藤田の述懐はさらに続いた。
「これは、審議案件だけじゃありません。情報についても同じです。他から要らぬおせっかいを出されぬために、不必要な情報は出さないようになりました。その結果、他人のところは無関心になり、わからなくなっていきました。自分のことだけにやたら専念するようになり、結局、今の役員は担当分野のプロフェッショナルにすぎなくなってしまったのです。他部署の案件であろうとなかろうと、経営として大所高所から会社全体のあり様を論じることを忘れてしまいました。特に製造関係は特殊用語や専門用語が多いため、聞くほうも面倒がって、自然、治外法権国家になってしまったというのが偽らざるところでしょうか。その極みが山陰工場の建設になってしまったのです。あのとき、新井さんがしきりに食い下がって反対していましたが、まさかここまでひどい状態になろうとは思いもよらぬことでした。原因は、日ごろからそれを見抜くだけの情報を得ていなかったことです。つまり、人任せで勉強しなかったのですね。これまでは、それでもうまくいっていました。浮田さんの前の近野さんにしても、営業担当だったころの小田さんにしても、うまくやっていた。それが……」そこまで言って、後藤田は言葉を詰まらせ、
「板が一枚代わっただけなんだがね……」ポツリと寂しそうに漏らした。
「何かおかしな方向に回転し始めました。お恥ずかしいことながら、今でも製造のことはよくわかりません。どの程度の能力があって、どの工場が毎日どれくらい作っていて、それが経営にどの程度インパクトを与えることなのか、数字的概念が全く掴めません」
「それじゃ、役員の資格ないじゃないですか。役員さんは、経営全体を判断するために従業員と身分を画しているんでしょう」吉田は諭すような目をした。
「面目ないですがそのとおりです。日ごろから勉強していないとダメですね」後藤田は、起こすようにちょっと体を引いた。
「吉田さんはわかりますか」
「いや、正直私もわからないんです。毎日のように平田さんに教えてもらっているんですが、馴染みがないことはピンと来ません」
話を始めてからやっと、2人の間に苦笑いがこぼれた。もともと2人は理系ではなかったから、理解が難しかった。後藤田は一橋大の経済だし、吉田は地方の私大の商業出身だ。

「そうですか。そんな状態ですか。それで、最終的に投資が決まった決定的要素は何だったんですか」
「社長の一言でした。“やる”と」
「あー、それで社長が切り出さなければ、廃止の話に持っていけないんですね」
「そのとおりです」
「しかし、役員会で決めたんですから、役員会で廃止も決められるでしょう。専務の起案でもっていけませんか」吉田は、役員の良識に掛けてみたかった。
株主に訴え、トップをなんとかしたいのは究極の望みであったが、それはそれとして山陰工場を休止し会社の赤字を食い止めることも焦眉の急務だ。吉田は組合員の生活を守らなければならない。一刻も早く赤字の垂れ流しを食い止め、1円でも多くの配分を得なければならないのだ。
「そりゃ、まず無理でしょう。第一、戦う玉がありません。平田君を経理くらいに持ってきて、財務面と一緒になって反対ロジックを展開できればどうかなってところでしょう。それでも論理的に五分五分というだけのことで、役員会の流れまでこっちに向けられるか……」最後は自信なげな言い方になった。
「今、平田さんを組合から外すわけにいきません。経理部員は非組合員ですから。それとも協約を改定して、経理部も組合員にしますか」
「それは、かえって不自然です。無理を通せばどこかに歪を生じます。かといって、他に製造部と五分に渡り合える人材はいないでしょう」
「役員さんはみんな、今のままでいいと思っているんですか」
「それはないでしょう。この経営状態ですから」
「それじゃなぜ、なんとかしようという機運が起きないんですか」
「わからないからです。正義感だけで、社長と浮田さんのスクラムに、中途半端な知識やムードで反旗を掲げるのは一介の役員にはリスキーすぎます」
「やはり社長ですか」そう言いながら、久しぶりに料理に箸を伸ばした。
後藤田は、完全に吉田のペースに引き込まれていることに気付き、胸の内で苦笑した。そして、ビールを一気に流し込んだ。
「専務が先頭に立って、役員会で社長不信任を取ればいいじゃないですか」唐突な言い方だった。吉田は時々思いもよらぬ発想をする。
「クーデターを起こすんですか」後藤田は目を丸くした。
「詳しい決まりは知りませんが、過半数取れればいいんでしょう。取れませんか」
後藤田は、話にならないというふうにあっさりと否定した。
「絶対、ダメですね。数の問題ではありません」
「一人ひとり説得してもダメですか」
「ダメです。誰も相手にしません。よーく考えてください。役員の任命権はマル水食品が握っているんですよ。そして非常勤ですが、取締役会には金丸社長や樋口専務も名を連ねておられます。クーデターを起こすということは、マル水食品に楯突くことになるんです。それを承知でクーデターに加担する者なんかいるものですか。それに、そんなやり方は私流ではありません」
吉田は、“やっぱりダメか”と、黙ってうつむいてしまった。
後藤田は、そんな吉田を見ながら“チョットつれない言い方になったかな”と思ったが、ここはハッキリとわからせておかなければならないと思った。そして、
“自分は今まで、権力争いなんぞに現を抜かすのはおぞましい限りだと蔑視していたが、もし自分が社長だったとしてもこんな状態になっていただろうか。経営に携わる者としてトップを牽制し、緊張感を持って経営してもらう意味で、もう少し政権への意欲を持つべきだったかもしれない。役員にはそんな役割もあるのかもしれない。権力志向も、ある意味で必要悪な部分があるのかな”と自戒の念を持った。
後藤田の高潔な性格も、いいときばかりではない。時として裏目に出ることもある。人生とはそうしたものだ。
「それじゃ専務は、このまま役員会を硬直させたまま、奇跡が起きるのを待っているんですか」
「……」
「専務だったらどうされますか。後藤田流とはどんなやり方ですか」黙っている後藤田に、吉田は矢継ぎ早に詰め寄った。
「そうですね。私流を語るなら……」後藤田は、そこまで言って吉田の目をじっと見た。
「これはあくまでも私流としての話です。私だったら金丸社長に会ってきちんとお話します」
吉田は“ヤッター”と叫んだ。金丸社長への取っ掛かりが出てきた。
「専務、そうお考えならやってくださいよ」
「なんということを。吉田さんは、私に会社を辞めろと」
「そんなことじゃないんです。専務に助けてほしいのです。専務お願いします。立ち上がってください」
「立ち上がる?立ち上がって何をしますか。今動けばやはりクーデターになってしまいます。もう少し機が熟さなければいけません。今はまだ私は動けません。私が動く天の時、地の利ではない。その辺の判断を誤って、いたずらに動いたりすれば私自身だって会社に残れなくなるかもしれないからね」
「首になったっていいじゃないですか」
「なんですって」後藤田は絶句した。

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