更新 2016.05.18(作成 2007.06.15)
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第3章 動く 25.本筋
「ウーン、それもそうやな」みんな、盲点を突かれた感じだ。しかし、
「逆効果になると判断した。一般市民にも迷惑をかけるので、場所を本社に移して合同職場集会に切り替える、と言うしかないと思う」吉田は苦しい答弁をした。
「それじゃいいか。手配するよ」豊岡は気が急いていた。
「ウン。どっちにしてもバスの手はずは整えておいたほうがいいやろ」作田が豊岡のほうを向いてうなずいてみせたので、豊岡は電話機のほうへ向かった。誰と話をしているのかわからないが、5分近く電話をしていた。その間みんな黙って成り行きを見守った。
「それじゃ、よろしくお願いします」と、豊岡は受話器を置いた。うまくいったようだ。バスの手配が済むのを待って、
「常務が待っておられるので、返事だけしてきたらどうですか」長瀬が吉田に向かって促した。
「そうやね」と、吉田もその気になりかけたとき、
「ちょっと待ってください」今度は平田が止めた。みんなの目が平田に注がれた。“まーだ何かあるのか”と言いたげである。
「これで、支部長に対しての言い訳も、バスの準備もできたわけで、株主への訴えは今回は自重するということでいいんですが、本筋を外したらいかんと思います。今、我々は春闘をやっとるんですよ。そのことが何も進展せずに、ハイやめましたと引き下がるわけにはいかんでしょう。これだけのことを引っ込めるんですから、なにか見返りを引き出さんと一本筋が通りません。支部員は納得しないと思います。かえって不甲斐ないと思われませんかね」
デモのことばかりに気をとらわれすぎて、本題をすっかり忘れていた交渉委員はハッと我に帰った。
「しかし、今更数字を動かすのは難しいやろ」長瀬が難色を示した。
「月曜日になんらかの有額回答を出すということでもいいと思います。それを見て次の行動を考えることにした、ということで説明がつくんじゃないですかね。それだったら事態の進展、戦術の変更で支部員も納得できるでしょう」
「しかし、有額回答といっても0.1や0.2%くらいのことでは収まりがつかんように思うよ」
「そうかもしれん。しかし、何もないで引き下がるより、春闘のシナリオとしてはこのほうが成り立つやろ。常務に徹底的にお願いして、なんとか数字を出してもらうようにするんよ」
「常務は受けてくれるやろかね。ここまでお前たちのことを考えてやってきたのに、まだそんなことを言っているのかと、怒らんかね」長瀬はまだこだわっている。デモの言い出しっぺだけに、早くこのことに終止符を打ちたかった。
「そりゃわからんけど、会社側にも負い目はあると思う。株主の前でデモなんかやられたら面目は丸つぶれやろ。きっとわかってくれると思うよ。常務が今日来られたのも、本音のところでは我々のこととそのことが半々だと思うよ」
「ウーン、常務が怒るか、話に乗ってくれるかやね。常務次第か。常務の顔色を見ながら柔軟に対応せないかんね。難しいね」誰かが呟いた。
「そこのとこは三役に任せたらどうかね」長瀬もついに折れた。
河村もデモの中止を聞くまでは引き下がれない。組合も賃上げ交渉の進展を見ないと中止はできない。一つ手を間違うと抜き差しならぬ危険性を秘めた薄氷の上の綱引きだ。
三役は有額回答を引き出すべく河村と交渉することとなったが、この交渉は難しい。河村を介して後藤田を動かすのであるから、まず、河村をその気にさせなければならない。自分たちが、後藤田や小田らと直接交渉するほうがまだ易い、と平田は思った。
電算室には、バックアップ処理をする若手技術者と室長を残して、他にはもう誰もいない。三役は、遠目に申し訳程度の会釈を室長にして河村の待つ会議室へ入っていった。河村が組合事務所に顔を出してから既に2時間以上経っている。河村はいつも本を携えているが、今もそれを読んでいた。
「どうも、お待たせしました」河村と対面する形で座り、最初に吉田が詫びた。
「常務のお気持ちは大変嬉しく思いました。しかし、私たちは今春闘を戦っているところです。交渉が暗礁に乗り上げたまま、何の進展も見ずにこのままで引き下がるわけにはいきません」吉田は、乾坤一擲(けんこんいってき)の賭けに出た。デモ中止のことは伏せたままで、河村を追い込む手法をとった。
“うまくいかなかったらそれまでで、バスで引き上げてくればいいだけのことだ”こんなときの吉田は度胸が据わっていた。“うまくいかなかったらどうしよう”などとくよくよ考えない。
「それじゃどうしてもやるというのか」
「このままでは組合員に言い訳がたちません」
「犠牲者が出てもいいというのか」
「必ずしも出るとは限らないのではないでしょうか」
「やめたほうがいい。リスクが大きすぎる。それに逆効果だよ」河村も引き下がれない。
「しかし、これだけの企てを何の成果もなしに止めるリスクも大きすぎます」吉田はそれとなく水を向けた。
「なるほどそうか。それじゃ、なにがしかの成果があればいいんだな」河村もなんとかやめさせたくて可能性を探った。
「ただ、成果といっても、ここまできたら少々のことでは収まりがつきません。それなりのものが出ないとだめです。しかし、もうこの段階にきては無理でしょう」吉田は、わざと可能性を否定してみせた。
「ウン、そうかもしれん。しかし、やってみなきゃわからんさ。専務だってある程度のことは覚悟してるかもしれないしな」
「そうでしょうか」疑問形にすることで、一縷の可能性を期待する意思を表した。
「俺も一存で交渉を打ち切るわけにはいかんから、ちょっと専務と相談してみるよ。専務の立場もあるだろうから、相談させてくれ。それでいいだろう」
「いいんですか。会食中でしょう」
「連絡くらいつくさ」
「もし、その可能性が少しでもあるのでしたら常務にお骨折り願います。私たちもデモが目的ではありませんので」
「そりゃそうだろう。よし、それじゃここでちょっと待っていてくれ。専務と連絡をとってみるから」
「ありがとうございます。ただ、私たち組合は、今春闘において極めて控えめな要求を設定しております。そのことを考えてください」立ちかけた河村に、吉田は念を押した。
「わかっているよ」そう言って河村は、営業部の自席へ戻っていった。
「今、あなたはどこにいるの」
後藤田は、会食室の前のロビーで河村の電話を受けた。
「本社の自分の席にいます。会議室に三役を待たせてあります」
「わかりました。それじゃ、しばらくそこで待っていてください。折り返し連絡します」
電話を切った後藤田は、秘書を走らせ小田を外に呼び出した。
「組合が、明日の総会に向けてデモ行進をやると言っています」
小田もそのことは知っていた。
「それを収めるのがあなたの仕事でしょう」小田は、突っぱねた。
「そのためには上積み原資が要ります」
「またですか。この前の賞与のときもそうだったじゃないですか。会社がこんな状況のときに何を考えとるんですか。そんな金はありませんよ。ダメです」
「それじゃ組合は収まりませんよ」
「それをなんとかするのがあなたの責任でしょう」小田は、責任を後藤田に押し付け、あわよくば煙たい存在を引責辞任に追い込めないかと、都合のいい“腹算用”をしていた。