更新 2016.04.26(作成 2007.03.05)
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第3章 動く 15.握手料
「そうですね、もうやるだけのことはやってきたと思います。三六拒否を粛々と遂行して、会社の決断を待つしかないでしょう。後こっちでできることといえば、書記長が頑張って会社のケツを叩いてくるだけですよ」と、吉田は作田の顔をチラッと見て言った。
「任せてください。ケツ叩くのは得意ですから」と作田はわざと陽気に振る舞ってみせた。
「それでは、支部との連絡を手抜かりないようにして、我々も待機しておりましょう。それから、今後どんな展開が待っているかわかりません。皆さんも、それぞれ自分の考えをまとめておいてください」
それで会議はお開きになったが、支部で何が起きるかわからないから誰も帰ることはできない。思い思いに本を読んだり世間話で時を過ごし、適当な時間に事務所を切り上げた。
いつものように最後まで残った三役は、後藤田との交渉の首尾を吉田から聞きたくてしょうがなく、みんなが早く帰らないかとやきもきしながら待っていた。
みんなが帰ると三役の視線は吉田に注がれた。
「ウン、専務も呆れておられたよ」吉田は、当然と言わんばかりにうなずいて一部始終を話し始めた。
「やっぱり本当だったんやね。けしからんな」作田が怒った。
「それで、たぶん明日会社から団交の申し入れがあると思います。我々はもう何もすることがないから、書記長は会社に行ってケツを叩きまくってください。団交のあとまた考えましょう。それから、三役ですからもうそろそろどうやって終わるかを見据えた展開を描いておいてください」吉田は、三役の自覚を促した。
12月11日も朝から待機である。一旦みんな顔をそろえてあいさつが終わったところで、
「それでは私は会社に行ってきます」と、作田は勇んで出て行った。
「頑張ってよ」「負けたらダメよ」などと、残った者はげきを飛ばした。
一方会社のほうでは、後藤田が社長の小田と打ち合わせをしているところであった。もちろんこれは後藤田のパントマイムに近いパフォーマンスである。
「人事部長が勝手に0.2カ月削って出しておりましたので修正します」とは回答できない。あくまでも公式数字は0.3である。それを動かすには、社長と労務担当重役との打ち合わせ時間をどうしても挟まなくてはならない。それに、自分が出るからには何がしかの握手料くらいは欲しいところである。
しかし、社内的にはすでに2.5カ月で決しているから、再度そのことを口実に社長と面談はできない。三六拒否も今日で2日目であり状況は大変厳しいといったことや、今日は直接自分が団交に出ることなど、当たり障りのない話に終始した。社長の小田も怪訝な顔をしている。最後に、
「ところで社長、上積原資はもう出せないでしょうね」
「そうですね。この状況ですからね。できることならこのままで終わってほしいところですね。役員会でもそう決していますからね」
「しかし、固定部分だけで当面の矛先は収めてもらったとしても、集約にまで持っていくのは難しいかもしれませんよ。チョット手違いなんかもありましたからね」後藤田は、筒井の失態を思い浮かべた。
「うーん、困りましたね。私も労務のことはよくわかりませんが、専務はどうお考えですか」
「そうですね、ギリギリ頑張ってみますが最後はやはり何がしかの握手料は要ると思います。ただこれは最後の最後です」
「いくら位を考えていますか」
「0.1でいいでしょう」
「原資としていくらくらいですか」
「2千万円くらいでしょう」
「2千万か。1千万円で収めてもらえませんか。それくらいなら私と専務の責任で役員会はなんとかできるでしょう」
「ウーン」後藤田はしばらく考えるふうだったが、何か微かな糸口を思いついたらしく、
「まあ、なんとかやってみましょう」そう言って、後藤田は社長室を後にした。
作田と筒井の話は噛み合わない。
作田は、0.5カ月上積みの会社決定を知っていることなどおくびにも出さずに、「出してください。会社を説得してください。経営の責任でしょう」と頑健に突っ張っているし、片や筒井のほうも「何とか納めてくれ。俺が何とかするよ」と、2日前と同じ思惑をまだ捨てきらずに組合の懐柔を繰り返し、平行線をたどっている。
2人が押し問答をしているところに、さも社長室から帰ってきたばかりといった雰囲気の後藤田が勢いよく筒井のデスクに近づいてきた。背の高い後藤田が大股で足早に近づいてくる姿は迫力があった。
「団交の準備をしてください。今日は私も出ます」と、筒井を見据えて告げた。
筒井は反射的に起立した。
「ハイ、わかりました。何時からにしましょうか」
「そうだな、今からじゃ切が悪いから昼から一番にしましょう」
そういうと険しい顔で足早に部屋に戻っていった。
後藤田は、筒井の不実は黙殺し、毅然とした態度で昨日吉田と打ち合わせたシナリオどおり行動した。
「そういうわけだから、1時からということでいいかな」
「今日は何かあったんですか」作田は、おおよその見当は付いたがわざととぼけてみせた。
「イヤ、わからんよ」筒井は、苦虫をつぶしたような顔で自分の描いたシナリオが完全に封印されたことを悟った。
筒井のとったやり方は、昭和40年代から50年代には一般的によく見られた労使関係である。企業は、高度成長期で少々の組合の要求も業績拡大で吸収できたから、組合に対して寛大に接してきた。筆者の記憶でも昇給率が20数%という経験がある。高度成長とオイルショックで超インフレの時代だから、価格転嫁で吸収できたのだ。
こんな時代だから、1%や2%組合要求が上振れたとしても物の数ではなかった。むしろこの時期に労務問題でつまずくことは、事業拡大の機会損失に繋がるし経営としての世間体も悪かった。つまり、組合の要求も飲めないほど経営に力がないのか、と批判的風潮があったからだ。組合とは、妥協的共存が主流だったと思う。
しかし、馴れ合いが過ぎ、組合が増長しすぎてはいけない。あくまでも一線を画し、お互いの立場を尊重し合い、緊張感のある関係が望ましい。
この時代、組合の運動方針の差がその後の企業力の大きな差となったのが、皆さんもよくご存知の日産の労使関係である。他社のことなので多くは語らないが、高杉良氏の著書『破滅への疾走』や『労働貴族』には、大変興味深くこのへんの事情が描かれている。トヨタとの決定的な差が生じたのは、この時代の組合の運動方針に起因するというのはその後のアナリストの評価だ。
しかし、時代は変わったのだ。いつまでも古い考えでやっていけると思っていると取り残されてしまう。それは企業も人も経営も同じではないだろうか。
筒井もいつまでも同じやり方が通用すると信じ、考え方を切り替えられなかったところに悲劇があった。