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悲哀

更新 2016.04.19 (作成 2006.09.25)

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第2章 雌伏のとき 35.悲哀

平田は、もう仕事をする気はしなかった。書類をそのままにして組合事務所に駆け込んだ。事務所には委員長も書記長もいた。入るなり、
「俺は転勤になったで」と、大きな声で怒りをあらわにした。
「そうですか」2人の返事にサプライズはなかった。
「そんな簡単なもんかね。冗談じゃないぜ。正しいこと言うものが馬鹿を見ることになるやないね。組合は反対じゃないんかね」
「まあ、ヒーさん、座ってください」吉田が、会議用のテーブルのほうに進み、平田を誘った。作田も吉田の横に座った。
「実を言うと、この前楢崎課長から話がありました」
作田が経緯を説明しだした。
「ということは組合は了解したということやね」
「私たちもいろいろ考えたんですよ。その結果、今回は転勤したほうがいいと思ったわけです」
「あんたらは人事(ひとごと)やからそんなことが言えるんやろ」
「そうじゃないです。平田さんのためにも転勤したほうがいいと考えたんです」
「何でいいんかね。左遷させられた俺の身にもなってくれよ。俺が何をしたと言うんかね」
「平田さんは悔しいでしょ」
吉田が平田の気持ちを汲み上げた。
「当たり前よね。正しいことを主張した者が転勤させられるなんて、こんな馬鹿らしい話があるもんか」
「だったら、見返さないといかんでしょ。製造部にずっといてそれができますか」
作田が積極的だ。こういう役回りは適任である。
「そうは言うが、広島工場で何ができるんかね。浮田の管轄内やないね。第一、正義が通らないということが許せんのよ」
「それはわかります。今は悔しいでしょう。しかし、正義がないくらいのことは、わが社にはいくらでもあるじゃないですか。だからこんな会社になっとるんですよ。しかし、そんなことに拘泥していても始まりませんよ。それを正すために我々が立ち上がったんでしょ。そしたらその先を見ましょうよ」
今度は吉田が了解した訳を話し出した。
「だから、俺はその犠牲で我慢しろということかね」
「いいえ、逆です。チャンスですよ」
「チャンス?」
「そうです。ヒーさんは製造部なんかでうじうじと燻ぶっている人じゃないんですよ」
「今左遷をくらったばかりの人間に、そんな慰みは空々しいよ」
「慰みじゃありません。このまま製造部にいたら一生飼い殺しでしょうよ。それでいいんですか。それに、どうせいずれは出されますよ。どうせ出されるのなら、まだヒーさんが組合という別の活躍の場があるうちに出たほうがいいんです」
吉田の話はいつもおっとりしている。
「そのうち浮田がおらんようになるやろ」
作田が先読みのようなことを入れてきた。
「このままだったら、まだ10年先ですよ。それにおらなくなっても、埋没してしまったヒーさんに再び陽が当たりますかね」
「……」
吉田は何も言わなかったが、作田がフォローした。
「そこで私たちは考えたんですよ。ヒーさんは他の部署に移ったほうがいいと。そのためには一旦製造部を出たほうがいいんです。製造部におったら、他の部署が引き抜こうと思っても、手を出しづらいでしょう。広島工場やったら、拾いやすいやないですか。そう思って了承したんです」
それでも、不条理な転勤を現実にわが身に宣告された平田は、まだ納得がいかなかった。胸の中を掻きむしられるように悔しかった。
「しかし、現役の副委員長やで。組合も舐められたということやろ」
「わしが馬鹿じゃけ、すみませんね」吉田は自嘲気味に苦笑いした。
そう出られると平田ももう返す言葉がなかったが、それでもやり場のないやるせなさを持て余した。
しかし、組合事務所に駆け込んできたときよりは幾分気分は治まっていた。吉田と作田が、少しは自分のことを考えてくれていたことがわかっただけでも慰められた。そう思って組合事務所を出た。
すると作田が後を追ってきて、
「ヒーさん。悔しいでしょうが我慢してください。委員長はさっきあんなことを言いましたが、本当はヒーさん以上に委員長は悔しいのかもしれません。楢崎課長が来たときも一言もしゃべらなかったですから。やはり自分の組織に手を突っ込まれたわけですからね、悔しくないわけはないでしょう」
「だったら、なんで反対せんのんかね」
「それ以上の大事があるじゃないですか。それに、さっきも言ったようにヒーさんのためにそのほうがいいと考えたんですよ。そのために委員長は我慢してメンツを捨てたんですよ。わかってやってください」
「そうか、そうだったんか。まあ、どうしようもないか……」
言葉にならない言葉で口ごもりながら、渋々受け入れざるを得なかった。
「ありがとうございます。今度ヒーさんの慰労のために釣りに行きましょう。セッティングしますよ」
平田は、まだ釣りをするような気にはなれなかったが、気を使ってくれているのは素直に嬉しかったし、
「うん、ありがとう」と曖昧に返事をしておいた。
“しかし、奥さんにはなんて言おうか。左遷させられたなんて言えるのか”そんなことを考えながら、自席に戻った。
何もする気がしないまま背もたれにもたれてぼんやりしていると、
「明日から水沼君が来ますから、引継ぎをお願いします」と楢崎は澄ました顔で言った。平田は一瞥をくれたまま、返事の代わりにあごを突き出した。
“お前は課長だろう。何とか言えよ”と思ったが、何も言わない。
“そういえば山本もそうだったな。俺の課長は皆そうだな。都合の悪いことは逃げる。卑怯な奴らじゃ。 出世のためなら部下の信頼も、部下への配慮も、自らの誇りも、いとも簡単にかなぐり捨てられるのか”と、人間の性を平田は悲しく思った。
平田はまだ気持ちの治まりがつかない。正しいことを言う者が馬鹿を見るような会社に腹が立つのか、そんな不条理がわが身に起こったことに腹が立つのか、浮田という奸悪がのうのうと会社に巣食っていることに腹が立つのか、自分でもわからないが気持ちの整理をつけることができなかった。
“転勤とは、みんなこんな悲哀を感じているのだろうか。そういえば何人もの人が転勤していったな。それぞれに悲喜こもごもの事情を引きずっているのだろうか。栄転以外は左遷だろう。それとも、俺の転勤が特別な事情を抱えているだけなのか。浮田との確執がなかったらこんな悲哀を感じなくても済むのか。逆に純粋に能力や適性が原因と判明し、かえって寂しくなるのか。諦めがつくのか。転勤って何なのか”ぼんやりとそんなことを考えながら、
“これからどう生きていけばいいのだろうか。工場の中では、決まったことを決まったやり方で、決まった結果を出すだけだ。俺に耐えられるだろうか。浮田の時代が終わるまで耐えるしかないのか。それとも他の部署から引き抜きが来るというのか。吉田はそのために転勤したほうがいいと言った。そんな一縷の望みがないわけではなかったが、可能性は極めて薄いではないか”
そんなことを考えていると、河原哲夫から電話が入った。以前プロジェクトで一緒だった業務課長だ。もう、知っているのだ。
「おい、転勤だってな。いいか悪いかわからんが、こんなときは勉強しかないぞ。雌伏のときと言ってな、次の飛躍に向けてじっと耐え、力を蓄えておくことや。本は俺が紹介するよ」

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