更新 2016.04.18 (作成 2006.07.05)
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第2章 雌伏のとき 27.待機時間
問題は、いつ本人に通知し、発令をいつにするかである。
“今週末は懇談会があるからな。わざわざこのタイミングで機嫌を損ねることもないか。終わってからやな”と計算し、転勤手続きに問題ないことと合わせて、楢崎はその旨を浮田に報告した。
「そうやな、それがいいやろ。それでのうても雲行きは怪しいからな。わざわざ懇談会前に神経を逆撫ですることもなかろう。しかし、できるだけ早いほうがいいからな。懇談会が済んだらすぐに手続きしなさい」と浮田も了承した。
話は少し前後するが、ここで労働基準法と労働協約、労働契約、就業規則の優先順位を整理しておこう。
労働条件の効力に関する法律を整理すると、
と、いったところがピックアップされる。これらを整理すると、何にしても労働基準法が最優先されることは当然である。 仮に組合や本人が了承したとしても、この基準を下回っていれば無効となる。図式にすると次のようになる。
労働基準法 ≦ 労働協約 ≦ 就業規則 ≦ 労働契約
この順は労働条件の低い順になるが、逆に効力の大きい順である。
なぜなら、労働基準法は法自らが言っているように、最低の基準であるからである。
最後に労働協約と労働契約の違いを簡単に触れておくと、
労働協約は組合との集団的労務提供契約であり、労働契約は個々の労働者との労働条件に関する契約である、と言えよう。
昭和59年10月25日、新執行部と会社役員との労使懇談会は、本社会議室で午後1時から行われた。
吉田ら執行部の面々は早めの昼食を済ませ、時間が来るまで事務所に待機した。いつもは各自の職場の出来事や地方の催し物の話などで賑やかな時間になるのであるが、さすがに今日は緊張した空気が部屋を覆っていた。
平田は、今日のメインテーマが会社業績のことであり、その主たる原因は平田本人と深い関わりのある山陰工場に起因することから、どんな発言が飛び出すかと心配だった。製造部の人間しか知りえない情報が他の者から発言されたら、それは取りも直さず平田による組合への情報漏洩ということになる。「平田さんの話によると……」なんてことが飛び出さないとも限らない。
これまで製造部の体たらくを嫌というほど組合で愚痴ってきているが、いちいち、これは内緒とかここだけの話だがなどと念押しなどしていない。
こんなことは誰でもやっていることである。不用意だったかなと思わないでもなかったが、心のどこかで組合でなんとかならないのかといった微かな希望を抱いていたからこそである。
かといってこの期に及んで、
「今までのことは内緒にしといてくれよ」なんて言えるわけもなかった。
製造部内の平田の立場は微妙な状態にある。浮田とは断絶状態にあり、今の関係は最悪だ。これ以上悪化のしようもないが、人目を憚らずに言う浮田独特の嫌味がたまらなく嫌なのだ。
“まあ、今更しょうがないか。じたばたしても始まらないさ。命まで取られるわけじゃあるまい”と思い直したが、やはり懇談会が開かれるまでの待機時間は長く感じられた。
他人に情報を渡すとき、気をつけなければならないことがある。
それはその情報を相手がどのような使い方をしてくれるかである。
ここでは、「平田さんの話によると……」といった使い方がなされているが、この情報源を明かす必要があるのかどうか、また、必要があったとしても明かしてもいいものかどうか、この見極めをちゃんとやってくれる相手かどうかを自らが判断して情報発信しなければならない。
人間は、自分が不得手な分野では自分の発言に重みや信憑性、説得力を持たせるために、殊更他人の名前を引用しようとする。正しいと自信があることや、 得意な事柄についてはあたかも自分の考えであるかのように言うが、自信はないが前に出たいときは、
「あの人の説によると」とか 「あの人が作った資料です」などと責任の所在を他人に押し付けて、自分は第三者であるかのように言ってしまう人がいる。 このような人には気をつけて情報発信しないと後で痛い目に遭うことになる。
10分前になったころ、作田が、
「そろそろ行きましょうか。少し早めに行っておきましょう」と促した。会議室はすぐ目の前の建屋である。5分とは掛からないが、礼儀であろう。
それぞれにノートや筆記道具を持ってゾロゾロと出ていった。平田は憂鬱な気分で最後に続いた。事務局員の中原里美が、まるでお祭りにでも行くかのように
「行ってらっしゃい」とニコニコしてみんなを送り出した。
平田は、“人の気も知らないで、いい気なものだ”と無邪気な彼女の笑顔が恨めしかった。
会議室の前には人事部のスタッフが待機していた。
「どうぞ」と手で中へ案内した。
テーブルの上には役職名と氏名が書かれたネームボードが置かれており、座る位置が決められていた。人事部スタッフは、委員長の吉田に
「この並びでよかったですかね」と尋ねた。
入り口から正面を上座にして、左右にテーブルが向かい合うように展開してあった。組合側のテーブルの中央に吉田のネームが置いてあり、両側に副委員長の豊岡と平田のネームがあった。平田の横に書記長の作田があり、あとは年齢が多い順に上手、下手と互い違いに配置してあった。それを確認した作田が、
「これでいいです」と、吉田に代わって答えた。
会社側は、社長の小田を真ん中にして後藤田専務、河村常務、浮田常務の順に、やはり上下上下と配置してある。
平田は、後藤田のネームを社長の上手横に見つけた。重いネームである。自分の顔が紅潮していくのがわかった。