更新 2016.04.08 (作成 2005.09.27)
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第1章 転機 24.白亜の殿堂
それからの平田は、ルーチン業務を黙々とこなす日々が続いた。
山陰工場の投資計画案についてやりあって以来、浮田も山本も話しかけてくることはなかった。
山本は、平田の後を受けて資料の作成にかかっていた。浮田の居るときは決して聞いてくるようなことはないのに、浮田の居ないときを見計らって、
「これはどうしたらいいかのぉ」などと、時々質問してくる。
「わかりません。自分でやると言ったんですから自分でやってください」と、平田は取り合わなかった。
最終的にどんな内容に仕上がったのか平田には一切知らされることなく事は進んだが、山本は自分の昇進も掛かっているから必死で浮田の意を汲んだ。慣れない仕事であることと、もっともらしい数値を作らなくてはならないから苦労している様子が伺われる。
どのように捏造したのかわからないが、恐らく矛盾や欺まんに満ちた根拠のない数字が並んでいるのであろう。
“俺が目を通せば、一辺で看破してやるのに”と忸怩(じくじ)たる思いを抱きながら、
“関係ないか”と無関心を決め込んだ。
しかし、それが役員会に付議され、多少紛糾しながらも小田社長の一言で承認されてしまったのである。昭和57年4月のことであった。
7月から山陰工場の建設工事が始まった。施設や技術関係のスタッフは米子への出張が多くなった。
当然、浮田や山本も地元経済界や官公庁との打ち合わせなどで出張が多くなった。平田をはじめとする残されたメンバーはほぼ半数になり、製造部はガランとする日が多くなった。たまに他部署の社員が用事で来ても、目当ての担当者がいないのを確かめ、「開店休業やな」と諦めて帰る。
平田ら残されたメンバーは伸び伸びと仕事をすることができた。こんな日は部内が明るい雰囲気になる。邪魔者がいないから仕事もはかどり、大概の者が定時に退社する。
製造部はもともと工場出身者が多く、時間観念が発達しておりあまり遅くまで残業することはない。また、残業してもきちんと申請し対価をもらう慣わしが身についている。就業規則では5分単位となっているから規定上は申請してもいいのであるが、何事にもアロアンスとか曖昧さというものがバッファとなって回っているものである。多くの社員は2、30分オーバーしたからといって一々残業を申請することはしないのが普通である。
しかし、製造部のほとんどの連中はきちんと申請する。申請しないと‘損した’と考えるのだ。工場時代の労働形態の習慣で時間の切り売りが身についてしまっており、本社機構に配属になった後でも労働時間の切り売りから抜け出せないでいた。
それでは拘束時間中5分や10分気を抜いたり、サボることはないのであろうか。平田のように一日中油を売ることだってある。そのことは口をぬぐっているのだ。
そんなことから「定時の製造部」と他部署から揶揄されていた。それに加え、今回の山陰工場建設など日頃から製造部の感覚に疑問を持つ者が多く、不名誉なことであるが製造部はついに『偏屈部』とあだ名が付いてしまった。
平田も製造部の一員であるが、平田はまともに見てもらっているのであろう、
「お前のとこは皆変わっちょるのー。偏屈部やな」と本音を言ってくれる。
「俺もかい」
「お前だけよ、まともに話ができるのは」
年が明け、山陰工場竣工を5月に控えた昭和58年2月、平田も山陰工場へ行かなければならなくなった。日報、月報や事務手続きの各担当者との打ち合わせである。
2月といえば冬真っ盛りで、山陰地方は雪に覆われている。しかし、雪道を走るのが好きな平田は車で出かけた。JRで行くにはあまりにも遠回りで不便だからである。可部から広島駅まで可部線で出て、新幹線で岡山まで行き、そこから伯備線で米子まで行き、さらにタクシーで3,000円くらい走らなければならない。うまく接続したとしても6〜7時間くらいかかってしまう。平田にはとても我慢できない。
山陰の雪化粧はたまらなく美しい。特に大山は伯耆富士(ほうきふじ)と言って富士山によく似た実に美しい姿をしている。標高1,709mと中国地方最高峰のトロイデ型火山で、なだらかな裾野が山の雄大さを醸し出し雪化粧が実に美しい。庄原から道後山峠を越えて30分も走れば右手に見えてくる。遭難者もよく出るほど冬は厳しい山で、本格的な登山訓練なんかも行われている。美しさと厳しさの両面を備えた山である。
冬はスキー、春から夏は登山や大山の裾野から蒜山(ひるぜん)高原へのスカイラインのドライブ、秋はもみじと1年中楽しませてくれる山で、平田も好きだった。
しかし、今はそんな悠長な気分になれない。もしかしたら会社をダメにするかもしれない工場の立ち上げの打ち合わせに行く途中なのだ。しかもあれほど反対した工場のである。
米子市内の繁華街から車で30分も走った弓ヶ浜の奥まったところに山陰工場はあった。境港まであと10分くらいのところである。工場の概容はほぼでき上がっていた。あとは内装の一部や機械類のメンテナンス、サニテーション、オペレーターのトレーニングといった段階にきていた。
平田は、着くなり目を見張った。1万5千坪のゆったりとした敷地に、白い鉄筋コンクリートの2階建ての建物が、白亜の殿堂を思わせるような景観を形成している。周りが荒地のままであるだけに突出した威容を誇っている。敷地の周りはフェンスで囲われ、内側にはカイズカと芝生が植えられていた。
「これはー」平田は絶句した。
“こんな贅沢をして、しかも市場はそれほどないはずなのに。これはきっとうまくいかない”
原価計算や損益計算で鍛われた平田の計数感覚と本能が、直感的にそう思わせた。遠くに、白銀に輝く大山の頂がまぶしかった。