更新 2013.05.07(作成 2013.05.07)
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第6章 正気堂々 80.関心を持つ
平田は制度構築の悩ましさにますます苛まれ、平田の苦悩はピークに達していた。
盛夏が目前のある朝のことである。平田はいつも8時には会社に着くようにしている。始業時間より1時間早い。人事に来てからずっとそうすることが習慣になっていた。社員に気持ちよく働いてもらわなければならない人事が、ギリギリに来るわけにはいかなかった。
会社に着いた平田はエレベーターの上矢印を力なく押して待っていた。ちょうどそこに樋口の会長車が車寄せに滑り込んできた。樋口も大体において朝が早い。
受付嬢が玄関のドアを開けて出迎える。さすがに、昔のように秘書がズラリと並んで出迎えるような大仰なことはなくなった。
エレベーターの前で平田と目が合った。「おはようございます」平田は静かに頭を下げた。ちょうどそこにエレベーターのドアが開いた。平田は先に乗り込み、左手でドアを制して樋口を迎え、10階のボタンを押した。
平田は樋口と乗り合わせた時は樋口の部屋がある10階のボタンしか押さない。10階まで直通させて樋口を先に降ろすようにしている。
「どうした?なにか悩みでもあるのか」
樋口はフランクな雰囲気を演出して声をかけたが、いつもの見慣れた平田とは違う何か尋常でない様子を嗅ぎ取っていた。何度も釣りに行き、平田が組合をやっているときから酒席にも何度も帯同していて平田の平静の精神活動のレベルは把握している。
「いえ。大丈夫です」
平田は力なく答えるのがそのときの精一杯の虚勢だった。ただ、大丈夫ですという言い方に何かを感じてほしい含みをいっぱいに込めたつもりだったが、会社のトップに何を訴えようというのか自分でもわからないままだ。
10階でドアが開いた。平田は開くボタンを押したまま頭を下げた。受付からの連絡で待っていた秘書室長と樋口付きの秘書が「おはようございます」と礼儀正しく頭を下げている。
それでも樋口はしばらく無言で平田の沈んだ顔をのぞき込んでいた。
驚いた平田が困惑気味に顔を伏せると、やがてその後ろ姿は廊下の奥に消えて行った。
11時を過ぎたころだ。丸山は電話で樋口から呼び出された。
丸山は驚いた。呼び出されるような懸念案件はないはずだ。
「おい。今なにか問題があるかのう」
丸山が人事課長の柴田に向かって声を掛けると、
「何のことでしょうか」
柴田は逆に聞き返しながら、小走りに丸山の側に寄ってきた。
「うん。今会長からお呼びがかかった」
「いえ。特になにも発生しておりませんが。なにかありましたかね」
大体、現場でなにかあったときは人事課長である自分のところに情報は入ってくる。しかし、最近は特にそんな情報もない。
「平田さん、なにか聞いてますか」
柴田は振り向きざまに平田に尋ねた。
「はぁ?」
平田は無頓着な返事を返した。
柴田は平田も聞いていると思って投げかけたが、平田の意識はそこになかった。
「あっ、いいです」
柴田はすぐに打ち消した。
「……」
平田はブスッとして腕組みをしたままふてくされた顔を机の上に落とし、話には入っていかなかった。今の自分の中では、制度構築以外なんの重要性も感じないし、興味を沸かす元気すらない。
「うん、わかった。まあいいや。行ってみよう」
そう言って丸山は腰を上げ、会長室のある10階に向かって考えながら出て行った。
秘書の取次ぎで会長室に入ると、樋口はこっちに来るようにと軽く目で合図した。
「どうだ。仕事は順調に行っているか」
「はい。お陰さまでみんな頑張ってくれています」
樋口の大きな執務机の前まで進んでいった丸山は、軽く腰を折った。
「人事制度は先だって方向承認が済んだところだな」
「はい。ありがとうございました」
「確か、担当は平田君だったかな」
「はい、そうですが。それがなにか」
「うん、いやな。君はどのように関わっている。少しは参加してるのか」
「はい、そうですね。要所要所で報告というか説明を受けて、特におかしいと思うようなところは差し戻すようにしております」
とは言うものの、丸山は平田に限らず部下の仕事ぶりにはほとんど口を挟むようなことはなかった。要所のチェックはするものの、部下を信頼して任せているのだ。そのやり方は部下にとって非常にやりやすいし、ありがたかった。しかもその手柄を自分のものにするということがなかった。だからこそ部下はこの人のためにと頑張れた。
丸山は、“俺のマネジメントのやりかたを叱られるのかな”と呼ばれた理由を推量った。
“相談があれば乗るし、最後の報告にはしっかりチェックしている。注意を受ける理由はないはずだが”
あれこれ憶測しながら次の樋口の言葉を待った。
「議論には参加しないんだな」
「はい、ほとんど……。部下を信頼しておりますし、私たちがあれこれ口挟むとやりにくいだろうと思って任せております。それに、私たちが思っている以上に彼らの論理構成はしっかりしておりまして、とても適いません。かえって足手まといになるような具合でして」
「うん。それでいい。が、しかしな。こういう長丁場の大仕事はどこで何が起きているかわからないものでな。他所からのやっかみや中傷かもしれんし、本人の問題かもしれん。表に出ないこともいっぱいある」
「はい」
丸山はなんのことかまだ飲み込めない。
「こういう仕事というものはな、上司の支えが要る。任せる信頼と責任は取るという支えだ。理屈は本人たちが考えよる。要は、頼むぞという励ましだな。それだけでいい」
そういえば、さっきもなんとなく平田の元気がなかった。ひょっとしたら俺のマネジメントに見落としがあったかもしれない。平田にかぎってと油断があったかもしれん、と忙しく頭を回転させ内省した。
「つまりだ。部下には常に関心を示し続けることだ。変化を見落とすな」
樋口もまた丸山を信頼している。今までの人事部長の中でも一番の適任だと思っている。だからこそ、新田と決めた人事だ。
「はい。すみません。一番信じている部下だけに少し安心があったかもしれません」
樋口は「関心を持つ」という、マネジメントのイロハを言っていた。
「うん。いいだろう。知らぬ仲でもないので私からも言っておこう。あとで遣しなさい」
「はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」