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 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.6-8

会食

更新 2016.05.27(作成 2011.05.06)

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第6章 正気堂々 8. 会食

7月も終盤になっていた。鬱陶しい梅雨も明け、一雨降るごとに鮮やかな新緑を見せていた野山の木々は照りつける陽射しの中で気だるそうに枝葉を垂れ、蝉の鳴き声も忙しくなった。
「ヒーさん。今度の土曜日、鮎釣りをセットしてくれ。社長がやりたいらしいのよ」
平田はおかしかった。とうとう釣りバカ日誌のスーさんよろしく、社長が釣りの虜になってしまった。
「しかし、川で大丈夫ですかね」
「うん、そうやな。大きな川はいかんな。優しい川がいい」
「それでしたら土師ダムの上の江の川か、湯来の水内川ですかね」
川岸は平田に言わせたいらしく、「どっちがいいかな」と尋ねた。
「鮎が大きいのは江の川ですが、水内川は水が奇麗で鮎は小さいけど美味いし、足場がいいのでメシ食ったりしてみんなが遊べるのはこっちでしょうか」
「よし。それじゃ水内川にしよう。セット頼むわ」
川岸はピタリと狙いがはまったように手を打った。
平田は釣り部の数人のメンバーと準備をし、樋口を一日遊ばせてやった。
川の中は石に生えた苔で足元が滑りやすく、流れが足をすくうから極めて不安定だ。そんな中で繊細な友釣りを手ほどきするのだから大変である。転んで怪我をされてはなお困る。だが、川の中は水がクッションとなって意外と怪我をしない。怪我が多いのは水の中に入るまでである。オトリ缶や釣り道具で手が塞がっているところにゴロタ石に足をとられて転び、怪我をするのである。
川岸は、まるで深く信じあう夫婦のように樋口にピッタリと寄り添い、それでも数匹の鮎を樋口に釣らせた。
60の手習いよろしく、樋口はあの難しい友釣りのコツを器用に飲み込み、初めての体験でありながら長い鮎竿を巧みに操り何匹かの鮎を釣り上げた。何事も一つの課題を克服したときの喜びは大きい。樋口は鮎の強い引きやその手応えを興奮気味に喜んだ。
川面では、華麗な飛翔の舞を見せるセキレイが目を楽しませてくれ、川筋を渡る爽やかな風はカジカ蛙の澄んだ声や、近くの山裾から響き渡るカッコウの鳴き声を乗せて渓谷中を吹き渡る。渓流釣りは釣果を別儀にして、身も心も洗われる遊びだ。
久しぶりの釣りを堪能した樋口は鮎の塩焼きや味噌汁で昼食を済ますと、「ありがとう。ありがとう」と、川岸や平田らの労をねぎらいながら意気揚々と引き上げていった。

十分英気を養った樋口は川を後にし、湯来温泉の河鹿荘へと向かった。Y建設社長との会食が用意されている。水内川で遊ぶことが決まったときから樋口の指示でセットされていた。
お迎えのセンチュリーに腰を下ろしたその横顔は、すでに従業員1300名の上場会社の代表の顔になっていた。秘書課長がピタリと随行している。
河鹿荘は、打尾谷川の川べりに立つ湯来温泉の一番奥にある観光旅館で、日帰り入浴も宿泊も出来る。山菜、囲炉裏で焼くヤマメの塩焼き、こんにゃくを用いた地元料理などが楽しめた。湯来のこんにゃくは広島近辺では美味しいと有名で、湯来温泉の土産店ではいろいろなアレンジでお土産になっている。河鹿荘の一番の自慢は獅子鍋だが、猟の関係で冬限定のため夏は鮎やヤマメの塩焼きを振る舞っている。
表向き、土地取引に伴う表敬訪問ということでオファーしてあったが、そんなことだけでわざわざ会いに行く樋口ではなかった。
温泉につかり汗を流した樋口は、予約してあった部屋で一休みしてY建設社長の来訪を待った。
服装は、秘書課長が用意していたのであろう、こざっぱりとしたカジュアルな装いに着替えている。
時間より少し前に秘書課長の森康夫が出迎えに玄関に出るとほぼ同時にY建設社長はやってきた。なんの警戒もなくにこやかである。
年令は55〜56であろうか。地元の建設会社社長らしく浅黒く日焼けした顔はがっちりした骨格に大きな目をして精悍な印象を与えた。小さいとはいえ、一国一城の主を張るだけあって、堂々とした風格と落ち着いた礼儀正しい振る舞いに誠実そうな人間性が伺えた。
森が部屋まで案内すると、樋口は下座に座っていた。
Y建設社長は驚いたように、
「これはいけません。どうぞあちらへお願いします」
「イヤイヤ、今日は私がお誘いしたのですからお気を使われませんように」
「いやいや、それじゃ私の立場がございません」Y社長は固辞した。
一般的には人間として対等であろうが、そこは世間の格式がある。大証2部とはいえ、売上高700億円の上場会社と、土建屋と呼ばれてもおかしくない程度の地元の一建設会社とは自ずと格が違う。しかも、方や広島のライオンズクラブにも名を連ね、地元の経済界では名の知れ渡った代表的企業の経営者である。
「まあ、そう堅苦しいことは言わずに、今日は私の顔を立ててやってください」そう言いながら樋口は左手の平で上座を指し、右手で背中を追う仕草を盛んにした。
「それじゃ、お言葉に甘えまして」Y建設社長は恐縮しきった顔で上座に正座した。
そのタイミングを待っていた森の手配で、料理とビールが運ばれてきた。
「まあ、一献」樋口は仲居が注ごうとしたビールビンを取り上げ、自らY建設社長に勧めた。
「恐れ入ります」Y建設社長はグラスを受けた。
お互いに注ぎっこしたグラスを合わせ、和やかに会食は進んだ。
「ところで今、土地購入の話が進んでいると思いますが、どんな具合ですか」樋口はやんわりと切り出した。
「はい。お陰さまで順調に進んでおります」
「私のところにはまだ詳細な報告は上がってきておりませんでね、Y建設社長にお聞きするのもおかしな話ですが、私の考えも少しお話しておきたいと思いまして今日はお越しいただきました」
「はい。なんなりと仰ってください」と返しながら、Y建設社長に緊張が走った。
どこまで話が行っているのか。樋口は承知しているのか。リベートの扱いは社内的にどうなっているのか。ここで全てをあからさまに話していいものか。Y社長は確信が持てぬまま抜き差しならなくなった。

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