更新 2012.04.05(作成 2012.04.05)
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第6章 正気堂々 41. 男の修行
堀越の思わぬ強い口調で部屋中に小さなイナズマが走った。配置換えという言葉には反射的に身構えさせる何か脅嚇的響きがある。
我関せずでマイペースを決め込んでいた若手や遠くの席にいる者も、誰もが手を止め堀越に注目した。ただそれは緊張のせいだけでもなく、堀越の話はビジネスマンとしての心構えの話であり、経営者とは遠い距離にある彼らには新鮮で十分興味をそそる話でもあったからだ。
「山本五十六はこんなことを言っている」
堀越は、今皆が自分に注目している空気を確認しながら彼らの自覚を呼び覚ますために五十六の語録を引き合いに出した。
“苦しいこともあるだろう
云い度いこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう
泣き度いこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である”
堀越はみんなの顔を見渡しながら一人ひとりに言って聞かせるように、ゆっくりと言葉を置いた。
「どこかで聞いたことがあるかもしれんが、男を磨こうじゃないか」
そう言って一息ついた。
堀越のよく通るテナーな声が終わると、辺りをエアコンのシューシューと風を切る音がやけに大きく耳ついた。世の中で偉くなっていく人というのは大体声がいい。人相や手相と同じように声はその人の人格や性格を表している。特に女性の、鈴を転がすような澄んだ声は魅力的ではないか。
オペレーターたちはじっと静まり返り、堀越の言葉を心で反芻しながら男の運命的哀愁を噛みしめていた。
「カウンターパートナーはどなたでしょうか」
そんな低く垂れ込めた雨雲のような重苦しい空気を破って榊下が尋ねた。
これから先は業務トークだ。皆も我に返ったようにまた自分の世界にこもろうとしたその時。
「今本次長を窓口にするから頼むよ」
堀越のその言葉にエッと再び皆が堀越のほうを振り向いた。
これまで何度となく営業とは業務打ち合わせを行ってきたが、その中でも最も電算に理解がないのが彼である。電算のことだけじゃなく合理化や効率化への意識がまるでない。そのことは電算室の中で定説になっている。
それを聞いた榊下もエンジニアたちもガックリと肩を落とした。それだけでこれからの苦労が思いやられた。
今本は営業第二課長で営業部の次長を兼任している。管理職の中では最古参級でそれだけに電算にはなかなか馴染めない一人だった。
「次長は忙しいですから頻繁に打ち合わせができないことがあります。もっと若い人で実務者を付けていただけませんか」
榊下はぐずるように食い下がった。
「それは彼が付けるだろうよ」
そんなことを知らない堀越はあっさりと切り捨てた。
堀越はセクショナリズムを捨てて、会社のために男を修行せよと言う。建前は堀越の言うとおりだ。しかし、こちらも生身の人間である。同格扱いならいざ知らず、口先一つでまるで手足のようにこき使われるのは耐え難い。俺たちはあんたたちの仕事に協力してやっているのだ。もう少し丁寧に扱ってくれよ。そう叫びたかった。
しかし、いずれにせよ電算の仕事は請負業的性格はぬぐえない。それを踏まえたうえでシステムをどう高めていくか、そして自らの心情をどうコントロールしていくか、電算の宿命だろう。
堀越が自ら骨を折ったことで営業の業務プロセスは大きく変貌し、時短も大きく進んだ。
一方、平田らが取り組んでいる人事制度見直しプロジェクトも地道な活動を続けていた。
平田は早く具体的制度のデッサンに入りたかった。ある程度のたたき台を作り、それを修正したり議論するほうが早いのではないかと思っている。そしてその方向性は、環境分析で得た情報をもとに考えると成果主義や実力主義の比較的ドラスティックな制度で結論つけるしかないと思っていた。
ところが、藤井はそれを許さない。そんなやり方ではけしていい制度ができないことを知っているからだ。今まで何度か制度作りの経験がある人間でもこんな拙速はやらない。経験があればあるほど慎重になるはずだ。
「本当にそうですか。それじゃここを議論してみましょう」と、平田らの検討不足を嗜めながら次々と検討材料を課した。
そんな藤井のやり方を平田はまどろっこしく感じたが、「なるほど」と「しぶしぶ」を併せ呑まざるを得なかった。