更新 2016.05.27(作成 2011.07.25)
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第6章 正気堂々 16. 赤紙
それから1カ月以上が過ぎ、暦はすでに師走に入っていた。どこの会社も年末行事と次年度の準備でなにかと慌ただしいころだ。
この時期になるとサプライヤーの営業担当は年末のあいさつと称して得意先の担当部署を訪問する。H銀行の営業役員も法人担当営業マンと経理を訪れ、次年度の資金計画や運営方針に大きな変化がないことを確認していく。もっともそんなことは日ごろから担当者がやっており役員は格好だけ聞いていくわけだが、用事が済むとその延長線上でトップにあいさつして帰るのが慣わしだ。不在のときは「確かにあいさつに来ましたよ」との証しに机の上に名刺を置いて帰る。
樋口はこの時を待っていた。
「まあ、お掛けください」
樋口は営業役員をソファーに案内し、秘書にコーヒーを頼んだ。
かって今までなかったことに営業役員は驚いた。これまでは、樋口の机の前に行儀良く立ち、おざなりなあいさつを交わして「どうぞ来年もよろしくお願いいたします」と言って帰るだけの慣わしだし、よその会社でもそれが普通の対応だ。
営業役員は緊張し、少し固くなった。
「いやいや、驚かれたでしょう。なに大したことじゃないんですが、少しお願いがありましてな、お時間を頂戴しました」
「はい。どんなことでしょう。なんなりと仰ってくださいませ」と、型通りの営業トークを返しながらも、どんな要求が来るのかと心の中で身構えていた。
「そう言っていただくとありがたいのですが、実はご存知のように我社(うち)の不肖役員が御社にご迷惑をかけましてね」
こんなときというのは積極的に「そうですね」とか、「はい、はい」などと返事はしにくいもので、営業担当役員は能面のような顔で微かにうなずくだけで大きな反応を控えた。
「とうとう手を上げてしまいまして」そう言いながら樋口は小さく万歳の仕草をしてみせた。
「その尻拭いをうちの課長がさせられておりましてな、家財道具一切に赤紙が貼られておるんですわ」
債務が新井から伊勢に移った段階で銀行は伊勢の家財道具に赤紙を貼り、担保に差し押さえたのである。家や土地はローンの担保に入っており、3番抵当、4番抵当では担保力が足りない。勢い家財を押さえざるを得ない。
バブル崩壊以降、融資先の破綻や融資の焦げ付きで銀行の債権は軒並み不良化した。そもそも差し押さえている担保そのものの価値が下落し、担保不足が至るところで発生していた。追加担保を差し出させたり財産を差し押さえたり、あらゆる銀行が自己防衛に躍起になっているところだ。
樋口はここで一息入れた。
営業担当役員もそんな事情は十分飲み込んでいるが、だからと自分に嫌味を言われてもどうしようもない。法治社会の契約上の成り行きだ。
一体樋口は何を言いたいのか。まだ緊張は続いていた。
「まあ、ご存知のようにわが社は銀行さんと違って薄給でしてな。その課長もローンを抱えながらの別途債務で今にも首を括るか、破産宣告しようかの瀬戸際におります」
「……」
それは気の毒である。目の当たりにそういう話を聞かされると融資当事銀行としての後ろめたさが肩にのしかかってくる。それに銀行の給与水準が高いのも事実だ。
「預金者である一般庶民や融資顧客を泣かせ、自分たちの待遇ばかりが優遇されている」
そんな嫌味な響きを感じ、担当役員は樋口を見つめる目線を手元のコーヒーカップに移し、一口すすった。
たしかに、金融機関の給与水準は群を抜いて良かった。初任給こそ一般企業並に押さえていたが、その後の格差は開くばかりで40才くらいになると年収ベースでは中小メーカーの2〜3倍は差があった。更には退職金や年金を加味した生涯賃金ではどれくらい開くのであろうか。
初任給は、産業を支えるべき金融機関が優秀な人材をさらっていくとの経済界からの批判をかわすため世間水準並に抑えていたが、入社してからの昇給スピードがまるで違った。それはベース・アップによるものではなく昇給の仕組み(一言で言うならば定昇だろうか)がそうなっているのだ。確かに彼らは猛烈に勉強し働いている。最近でこそ早帰りの日を設けたり、休暇の消化を促進し、時短に取り組んでいるが、この当時は毎日午前様になるのは当たり前の働きぶりだった。
デフレスパイラルに陥って以降、一般企業は人件費抑制のため、定昇や福利厚生などの見直しをヒステリックに推し進めたのであるが、金融機関はその大昇給の仕組みと格差を温存し、行員のモチベーションとモラルを維持した。
そうした仕組みをH銀行の担当役員もよく理解しており、樋口の皮肉っぽい言い方に目を逸らしたのだ。
「まあ、こんなことあなたに言っても始まらないが、債務免除を検討してもらえないかと思いましてね。一つ帰って相談してもらえますまいか。もちろん頭取のほうには改めてお願いに上がります。今日は事情を説明するだけで、あなたに取次ぎをお願いするわけです」
担当役員は、やっと状況が飲み込めた。バブル崩壊以降、いまやそんなことは形こそいろいろ違えど、しょっちゅう行内で起きていることであり驚くに当たらなかった。ただ、このようにあからさまに要求されたことはなかった。一般的には債務者が破産した法的処理であったり、債務不履行になったりして否応なしの不良債権認定が主だからだ。
「なるほど。ご事情はよくわかりました。ただ、お上も神経をピリピリさせておる時期ですし、株主様や一般預金者様への経営責任からも、銀行自らが債権放棄ということは難しいと思います」
担当役員はキッパリと銀行の立場を主張した。
「とはいえ、社長さまのご要望でございます。お預かりして帰って、トップとよく相談したいと思います」
H銀行の担当役員が帰った後、樋口は野木を呼んだ。
「野木君よ。H銀行との取引はどうなっているか、洗い出してくれ」