更新 2011.07.05(作成 2011.07.05)
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第6章 正気堂々 14. 私にしか
しかし、川岸は動かなかった。高瀬のように感情で反対なわけではなく、人間の生き様として自己責任だと考えているのだ。川岸は人の生き方には厳しいものを持っている。自分をも厳しく律するが人にも厳しい。その生き方が今日の地位を築いてきたし、その生き方が他の者を圧倒するカリスマ性の根幹だった。平田は川岸のそんな生き方をよく理解していた。
1週間が過ぎたが、川岸に動く気配はなかった。川岸のすぐ側にいて川岸の性格や考えがよくわかる平田は、初めからそんなこともあるかなという予感はあった。だからこそ自分より坂本がいいと思ったのだが、それでも川岸は動かなかった。平田や高瀬に尋ねても特に自分の信念を動かす理由を見出せなかったからだ。
これ以上坂本を焚きつけて2人の関係をこじれさせてもいけない。平田は、次にどうするかを相談するため組合事務所に坂本を訪ねた。
「この前の件だけど、空振りになったよ」
「なんで?川岸さんは動かんの?」坂本は浮かぬ顔をした。
「うん。川岸さんのポリシーなんだと思う。労務問題の外なんやろね」
「それでも社内で起きた問題やろ」
「うん。しかし、プライベートな問題で自己責任だと思っとるんやろ」
川岸は平田の直属の上司だ。その考えや性格がわかるだけに弁護の立場に回った。
「やっぱりそうやろ。俺も個人的問題だし自己責任だと思うよ」
坂本は初めから乗り気でなかっただけに川岸が動かないことにある種の理解を示した。
しかし、平田にはそれではいけないのだ。坂本になんとかその気になってもらわんと困る。
「確かに自己責任じゃが、それでいいかちゅうことよ。そりゃ、このまま放っておいても会社は何も変わらんやろ。しかしそれでいいかねー。こんな理不尽が社内でまかり通って誰一人たしなめる者がいなくて、見て見ぬ振りを全員がやっていたらそのうち何一つ不正を正すことは出来なくなるよ」
「まあそうだが、この前の今日だからね」
「だからいいんよ。これが遅れてみんさいよ、気の抜けたビールみたいなもんで“いまさら”ってことになるやろ」
平田の説得にも力が入った。
「しかし、そこまでせにゃいかんかちゅうことよ。なんでヒーさんはそこまで力を入れるんかね」
坂本は思わぬ隙間を突いてきた。平田は無防備を突かれて一瞬たじろいだが、気持ちを立て直すと冷静に押し返した。
「とにかく、俺にはいい会社にしたいということしかないんよ。いつもそのことばかり考えとる。しかも、会社を良くするも悪くするも役員次第やろ。今までの会社の歴史を見てみんさい。初代社長が私財までも担保に入れて会社の発展に尽くされてきたからこそ、社員も頑張って上場会社にまで成長できた。ところが小田、浮田の悪徳コンビがアッという間に会社を赤字に転落させ、取り巻きばかりを大事にするから社員が上役の顔色ばかりをうかがうようになり、気持ちをいじけさせてしまった。そして新井さんは博打に失敗して借金を社員に押し付けて逃げてしまった。浮田さんはやっと今回決着が付いたが、新井さんが社員に残した傷が治らないかぎり会社はいつまでも良くならんやろ。そうしたらこんな理不尽なことは早く決着をつけて皆が健康体に戻らんといかんし、こんな理不尽なことがなんのお咎めもなくまかり通っていたらいかんと思えるわけよ。誰かが見ているよということを明らかにせんといかんやろ」
坂本は黙って聞いていた。
「なっ。もう一頑張り頼むよ」なおも平田は食い下がった。
「どうするんかね」坂本は渋々問い返した。
「次の手があるとすれば経営責任かね。トップに直接言うしかないよ」平田は、そう言って坂本の顔をのぞき込んだ。
「エーッ。またかね」平田の意を察して、坂本はうんざりした顔をした。
「他に誰がおるんかね。委員長しかおらんやろ。それを指弾できるのは、委員長しかおらんやろ。川岸さんは立場やポリシーが違うからしょうがないと思う」
「しょうがねーなー。わかったよ。ヒーさんにはかなわんな」
坂本は、平田の熱意に負けるように渋々引き受けた。
「うん。ありがとう。良からぬ奴らを糾弾するだけじゃなくて、救うことも大事だと思うよ。頼むよ」
「しかし、俺が樋口さんに直接言うからには、この件はただ単に社員の救済だけでなく、会社としての責任があるかないかの真理の追究だと思う」
「そうやね。委員長しかできんね。もう余人の入る隙間はないやろ。頼むよ」
坂本は“やれやれ”と思いながらも“しょうがないか”とも思っていた。
組合委員長の役割の中には“こんなもの”も入っているのかもしれないと観念した。それに、川岸への申し入れが無視された形となり、このまま放置すれば自分の主張も気休めになってしまう。体面上もう一押ししておく必要があった。
秋も半ばとなり一年で最も過ごしやすい季節になると、組合は大会を終えこれから年末賞与の要求作りに取り掛かる時期で、会社は決算見通しや翌年度の事業計画を立てるころである。坂本は、新たな年に向かう覚悟を固めるこの時期を社長との会談時期に選び、樋口のアポをとって社長室を訪ねた。
「社長、もう一つお願いがあって参りました」
樋口はまた煩いのが来たという顔をしてみせた。
「しかし、君もいろいろと問題を吹きかけてくるな」
「そりゃ、そうですよ。社長に物申すなんてことは私にしかできないでしょう。耳が痛いことを誰も言わなくなったら、それはそれで会社がおかしくなります。耳に心地よいことばかり言う奴は、会社のことよりも自分の保身を優先させているのですからむしろ信用できません。私だって言わんでいいことまで言いたくありませんが、会社のためを思えばこそ敢えて言わせてもらいます」
樋口は「わかった。わかった」と手で押さえて、秘書が運んできたコーヒーを一口すすると、ソファーの背もたれに身を預けてタバコに火をつけながら「それでどうした?」と用件を促した。