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意見調整

更新 2016.05.24(作成 2010.02.05)

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第5章 苦闘 35. 意見調整

「わかりました。もう少し考えてみます」
平田が川岸の持っている提案書のコピーを回収しようとすると、川岸は握ったまま離さずジーッと睨んでいた。
「いや、まあいい。これで各部署に説明してみんさい」と書類を人差し指でパンパンと叩いた。
「いいんですか」
「あくまでも案としての意見調整や。本部長から始めるといい」
川岸は何を考えているのか。平田に根回しの勉強をさせようとしているのか、説明に回ることで予め問題点や各部署の意向を探ろうとしているのか、平田はわからなかったが自分の考えを通したい一心で川岸の指示どおりこの案を持って各部署の意見を聞いて回った。

なるほど。本部長クラスは聞き分けがいい。係長・主任は自分より随分距離があり小さなことのように思うのだろうか。そのくせ、自分のすぐ下の部長や課長のことにはうるさい。自らが引き上げてきた思い入れや、自分の政権支持母体でもあるからだろう。しかし、その管理職たちは手当が改定される。目くじらを立てて波風を立てることもない。まして配属してきたばかりの新米人事主任に何様のことがあろう。
平田は本部長たちの理解の良さに気をよくして各部署を回った。内容の良し悪しは別にして部長クラスは一心に理解しようと聞いてくれた。
その背景には樋口の社員に対する日ごろの教示があった。
役員や次の役員候補たる部長クラスには、 「専門分野に詳しいだけでは役員ではない。役員は会社全体の業績に責任を持つ株主様から選ばれた者たちなのだ。経理も人事も営業も製造も全てに精通しなければ役員の資格はない」と常々言い聞かせていた。
それまでの中国食品は、自分に関係ない部署の事柄には全く無関心でそんな暇があったら自分のことをしたい、という風潮に甘んじていたから目から鱗である。
やはりトップの力は大きい。特に樋口のカリスマ性はマル水との絶大なる信頼のもとに揺るぎようのない絶対的なものだ。その上権力だけでなく世界観を持ったその見識も、中国食品の社員たちのそれをはるかに超越していたから社員たちも素直に聞き入れた。
そんな背景があって平田の説明に、ほとんどの部長が配下の主な課長を同席させての受講だった。その姿勢は、「自分たちは人事について門外漢だ。この際話を聞いて勉強しておくのも悪くない。しかもなにやら新しい提案だとか。大いに興味をそそられる」といった思いの表れだった。
その中で冷機技術課は平田の案に噛み付いてきた。
冷機技術課は課長の下に係長1名、主任2名、女性職員2名がいたが、そのうちの横尾安弘という係長が目じりを吊り上げて平田に食って掛かってきた。その剣幕たるや親の敵にでも遭ったようで、部屋中に轟き渡る大声でまくし立てる。もともと濁った野太い胴間声は聞くに堪えなかったが、これも試練と平田は冷静に受け止めた。
人事部に転勤したてのころ、川岸が「貧乏くじかもしれんが試練は力のある者にしか与えられない」と言った言葉が脳裏をかすめる。この言葉が妙に平田の自信となってどんな詰(なじ)りにも耐えさせた。横尾の罵声にもなぜか“かわいそうに”という思いで意識の遠くで聞いていた。
「何ですかこの案は。これじゃ冷機技術課は仕事するなと言っているようなもんじゃないですか」横尾は激昂している。
「そんなことはありません。仕事はしっかりやってくださいよ」
「わしらに指揮権がなくなったら動かせんやないですか」激しい言葉で捲し立ててくる。
「何を言ってるんですか。どこの部署だって本社は現場の人に直接的指揮権なんかありませんよ。経理だって総務だって人事だって現場の担当者は営業所長の配下です。その上で管轄する業務の特性から本部長や部長令としてやってもらうんでしょうが。冷機技術課だけが直接支配下にないと仕事ができないというのはおかしいですよ」
「人事部は組織まで介入するんですか」
「そりゃ、人事ですから時と場合によっては介入することはあるでしょう。しかし、これは組織変更とは違います。あくまでも係長・主任の配置の問題で人事部の所管事項です。組織は少しも動いておりません」
確かに組織機構を変更することではないが、細部とはいえ厳密には組織編制の見直しに当たる。平田自身、指揮命令系統の一環と定義している。組織機構は総合企画の所管だからだ。しかし、横尾にはその矛盾を論破するほどの眼力はなかった。
「しかし、これでは仕事ができんじゃないですか。技術研修やら訪問計画やらできませんよ」
「何を言いよってんですか。仕事は顧客のオーダーに迅速に対応して売り上げに寄与するのが第一義でしょう。営業所長はそのことを必死で願っているんですよ。この案だってそうです。営業所には直接販売する営業機能とそれをサポートする総務と側面支援の冷機管理機能や車両管理機能、それに兵站機能のシッピング作業があるんでしょうが。それらが一体的に機能して総合的効果を発揮するんじゃないんですか。これらは全て営業所になければいけません。その上で、どうしても必要とあれば本部長を通じて召集すればいいんですよ。営業所も地区営業部も本部長の直接支配下にあります」
まだ食い下がろうとする横尾だったがこの議論ならもはや意味はないと平田は切り上げた。「そういうことですからよろしくお願いします」と立ち上がろうとする平田に課長の猪城輝定が引き止めた。

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