更新 2016.05.19(作成 2008.12.25)
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第4章 道程 24. 自問自答
新しい本社社屋はマル水との契約で10階建ての白いしゃれたビルになった。
10階には社長室、役員会議室、秘書室が配置され、秘書が待機するカウンターの前を通らなければそれ以上奥へは行けなかった。
9階は大小会議室となっており、パーテーションの組み合わせで自由に大きさを仕切ることができた。
8階以下は部単位で配置され、各フロアーごとに小会議室や応接セット、書庫、炊事場が設備された。今までは専務以上だった役員室も常務以上に宛てがわれた。
トイレは各階と階を結ぶ中階の踊り場に男性用と女性用が交互に設けられていた。上下両方のフロアから利用できるため設置個所が半分で済み、容積を有効に活用する工夫がされていた。
各部屋の壁という壁は扉で目隠しされた書棚となり、書類や書籍は全てここに収め机の上や棚に置かないルールになってスッキリした。
机やイスも新調された。壁や天井、机椅子もアイボリーの色調で統一され、柔らかく落ち着いた雰囲気のオフィスになった。まさに心機一転の門出だ。
樋口は、この建物以上に本社社員を増やしてはいけないと厳命した。その意味するところは、それ以上は合理化で対応せよということだ。
昭和63年11月19日(土)、中国食品は大移転をした。営業用のトラックを何台も連ね、書類を社員総出で運び出した。
本社移転に伴い、組合事務所も新しい本社社屋の近くにワンルームマンションを借りて移転した。
組合を辞めた平田の心にポッカリと空隙ができた。もはや天下国家を論じることもなく、華々しい団交やオルグもない。平穏だが寂しかった。自分の役割が一気に取り上げられ、存在価値がなくなったような錯覚になる。張り詰めた緊張も、机を叩いて議論した燃える情熱も、一事案を成し遂げたときの熱い感動も、遠い昔のことのようだ。
本社移転は、そんな平田を落ち込ませた。
“皮肉な巡り合わせや。組合を辞めて寂しい思いをしているときに本社まで遠のいていく”
本社の人間との繋がりで情報を得、熱い心をつなぎ留めていた平田には、追い討ちをかけられるような打撃だった。近くにおればこそ本社の動きもわかるし知人の話も聞けたのに、それらの情報が全く入らなくなった。地方の事業所の人たちが「本社の動きが全くわからん」と言っていたが、平田は今それを実感していた。
たったこれだけの距離感がとてつもなく大きな隔絶を生む。
「それくらいわかるだろう」と本社の人は言うが、それは違う。事情も背景も経緯も知り尽くした本社の人間が勝手にそう思い込んでいるだけだ。そうしたことがわからない地方の事業所では1事案が出てきたというだけのことに過ぎず、全てを理解し飲み込むことなどできやしない。本社の人間は常にそうした情報に接しているから情報の繋がりや流れがあり、納得感がある。しかし、地方の事業所は日々の戦闘に明け暮れているのだ。そんな情報など寝耳に水のようなものなのだ。1片の通達文で用が足りると思ったら大間違いであることを肝に銘じておくべきである。本社は遠いのだ。
本社がいなくなった敷地はがらんとして、静謐(せいひつ)だが寂しかった。平田は、置いてきぼりされたような孤独感を味わった。
“「去る者は日々に疎し」である。もはやおれのことを思い出す者もいないだろう。これで自分が本社へ復帰する可能性はさらに遠のいた”
平田は、自分の人生が古いセピア色の写真のように色あせていくように思われた。
そのころ、広島工場の工場長は浜瀬幸平(40)だった。山本とともに1、2を争う浮田の崇拝者であり、浮田に対して絶対的忠誠を誓っていた。
浜瀬は、学歴もなく勉強もしていなかったから教養のなさがあからさまに出る。さりとて考えてもいないから策がない。会議の発言や発信文書にも品格や崇高な精神の躍動感を全く感じることができなかった。浮田への媚びへつらいだけでここまできたようなもので、彼を尊敬するなどと言うものは誰もいなかった。
浮田の後ろ盾があるせいか工場内での品行は極めて問題があり、傍若無人の振る舞いに目を覆いたくなるようなことも度々だ。
「オイ」「コラッ」「お前」「何をしよるか」。まるでどこかの訳ありの組織の人間かと思われるような言い方で辺り構わず怒鳴りちらすことも珍しくなかった。夏の暑い日などは上半身裸で敷地内を闊歩し、肩を揺すりながら後ろに反り返ってガニ股で歩く姿は、とてもまともには見れるものではなかった。これが上場会社の工場長かと目を疑いたくなる。これが浮田の傘の下にガッチリと庇護され、隠然とした独立国家を形成していた製造部門の醜状だった。近野常務時代とのあまりの変わりように平田は情けなかった。
10月は「全国労働安全衛生週間」がある。広島工場も独自の「安全衛生委員会」を作って取り組んでいる。この委員会は従業員の中から委員を選び自主的かつ民主的に運営する組織で、従業員の参画意識も支持も厚かった。年間の標語の募集や月1度の工場内の巡回による危険個所の改善などまじめに取り組んでいた。
工場内での本来の仕事が多くなった平田は、衛生週間にあわせて行われた標語の募集に3点ほど応募した。これはその後ある委員から漏れ聞いた後日談である。
標語の審査は、誰の作品かわからないようにして委員全員の投票で票の多い順に上位から選ばれる。入賞者には賞状とささやかな記念品が贈られた。その募集で平田の標語は1位と3位の両方にノミネートされた。
しかし、それを聞いた浜瀬は、
「そんなもんやることいらん。3位をやっちょけばいい」と覆してしまった。教養がないからすることがえげつない。
「何が民主的や」とその委員は憤慨していたが、「それを突っ張りきれなかったあんたたちこそ不甲斐ないだろ」と平田は思った。そんなこと聞きたくなかった。
こんなふうに平田が組合を引退してからというもの、浜瀬の平田に対する嫌がらせは露骨になった。平田は浜瀬と話したことなどめったになく、個人的恨み辛みはないはずである。“浮田の意向を反映しているのだろう”平田はそう受け取った。
「よし、それならもうそんな活動には金輪際参加しない」固く誓った。しかし、そんなことまで影響するのかと悔しくて歯ぎしりした。
人間は弱いものに対してかくも残酷になれるのだろうか。権力の誇示か、他の者への見せしめか、浮田への義理立てか。それともストレスの捌け口か。なんの得にもならないイジメを楽しむ残虐さを人間は持っている。
工場内での平田の居心地はけしていいものではなかった。浜瀬の嫌がらせは顔さえ合わせなければ避けることができる。仕事に託(かこ)つけて近寄らないことにした。しかし、同僚の中には浮田―浜瀬ラインに気を回す者もいて、そういう手合いは平田を避けてどこかよそよそしい。何人かの心ある者だけが平田の話相手だった。
“本当に辞める時なのかもしれない”平田は頻繁にそう思い始めた。
しかし、実際に新しい職探しをするだけの踏ん切りもつかなかった。
「奥さんや子供はどうするん。路頭に迷わせるんかね。今更いい職なんてないよ。もうちょっとよ。我慢しんさい」
「俺たちも一緒よ。浮田がおらんようになるまでの辛抱や」
そう言ってくれる友達も何人かいた。
そんな慰みに心をごまかしながら、どんよりと過ごす日々が続いた。
“俺は一体何をしているのだろう”今更ながら自分の生き方が恨めしかった。
「生真面目に生き過ぎたのだろうか。あのとき浮田の言うとおりにしておけば良かったのか。自分一人が踏ん張ってみてもどうせ止められなかったではないか」そんな囁きがどこかから聞こえてきた。
「青臭い正義感なんか振り回すから後悔するんだよ」
「それじゃ、他の者と同じように器用な立ち回りができるのか。自分を押し殺し惨めに生きられるのか。将来、顧みて恥じない生き方をしようと言ったのはお前自身ではないか」そんな自問自答を何度となく繰り返していた。