更新 2016.03.22 (作成 2005.06.15)
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第1章 転機 14.腫れ物
浮田は、おもむろに体を起こし、正面に向き直った。
「平田くん、あんた今何しよるかね」
「何しよるたって仕事に決まっとるやんか。『何しよる』はなかろう」と腹の中で吐き捨てるようにつぶやいたが、その言葉を飲み込みながら苦笑いをしていると
「ちょっと仕事を頼まれてくれんか」
平田の席とはそんなに離れていなかったが、浮田はわざとらしく少し大きな声で言った。
常務直々のお声掛かりである。本来なら喜ばしいことであったが平田は、はじめから浮田が好きになれなかったから“やれやれ”の気分である。
「はあ、何でしょうか」
にこりともせず常務のデスクに近づいていった。一応メモ用紙とボールペンは持っている。
「あのな、こういう資料を作ってほしいのよ」
「……」
「山陰に工場を造ろうと思う」
「山陰にですか」平田は驚いたように、オウム返しに言ってしまった。
「そうだよ」
「場所はどの辺りですか」
「米子の工業団地を予定している」
「米子ですか……。山陰では中心地となりますが、いずれにしてもかなり厳しいと思いますよ」
「そら、やってみなわからんやろ」
「……」
平田は、難しいことがわかるだけに苦々しく思いながらも何も言わなかった。
2人の間に少し沈黙が流れた。
浮田も、「やっぱりそうかな」とさっきの自分の考えをもう一度反すうしたが、先を続けた。
「それでな、メリット計算をやってほしいんだよ」平田の顔を覗き込むようにして、いちいち反応を確認しながら話が続く。
「条件はな、1日あたり100P/Lくらいで、土地代は25億……」
「P/L」 というのは、中国食品独特の生産数量の単位である。
「かなり大きいですね。これだと広島工場と同等の規模ですね」
「何か不満かね。大きかったら気に入らんとでも言うのかね」
「そうじゃないですが、こんなに大きいのが要るのかな、と思いまして」
「そんなことは俺が決めるさ。何か文句でもあるのかね」ドスのきいた言い方になった。
「いえ、別にそういうわけじゃありませんが、これじゃ採算が合わないと思いますよ」
「それを計算するのが君の仕事じゃないのかね」浮田は、いら立ちを隠せない。
「……」
平田にしてみれば、明らかに過大投資かなと思えたので、ちょっと意見として言ったまでのことなのであるが、浮田は、まるで腫れ物にでも触られたかのように苛立った。
「ところで、この資料はどのようにお使いですか」
「役員会の資料や」
「作成にあたって、何かご注文はありますか」
「いや、特にはないが、どれくらいかかるかね」
「そうですね、2週間か3週間くらいでしょうか」
「うん、できるだけ早く頼む。一応、山本課長にも言っておくから」
「はい……」小さな声で返事して、自席に戻った。
平田は席に着くと、浮田との話を一応直属の課長である山本に伝えた。この仕事をやるために、他の仕事にはなかなか手が回せなくなることについて暗に了解を得るためである。言外に「他の雑用を俺に回すなよ」ということを含んでいる。
話が終わるのとほぼ同時に、浮田が山本を呼んだ。
おそらくさっきの話であろう。
帰ってきた山本は、平田に向かい 「まあ、頼むわ」と、一言言っただけであった。
“留意点とか、どう考えるかとか、上司としてもっと何か言うことがあろう” と思うのだが、全く人使いが下手である。
“浮田と何か細かい打ち合わせなんかもあったのと違うのか” と思うのだが何も言わない。
山本は、頭もいいし仕事もできるのだが自分本位のところがあった。そのため平田も仕事の上では一応は認めていたが、人間が好きになれなかった。人の心がわからないのである。そのくせ上司にはやたら丁寧で従順である。管理職でありながら、部下は誰もついていくものがいなかった。頭の良さだけでもっているような男であった。