今、戦後60年
子供の頃はずっと、戦争の話がきらいでした。
戦後50年だったのは私が小学校6年生のとき。あの頃の私には、戦争の話はつまらないだけだった。あまりにも現実からかけ離れた、ただの嫌な話でした。
それは平和ボケの日本の私の、現代病のようなもの。終わった話だと思っていました。昔のつらい話を聞きたくなかった。聞いても私に何ができるわけでもないのに、それならいっそ、聞きたくなかった。
今まで私がずっとそんなふうだったのは、きっと自分の中の鎖国を続けていたからです。
鎖国の終わりのきっかけは、韓国との出会いでした。私の育った日本と、あの子たちの育った韓国は、隣にあって、似ていて違う。単純なそのことの発見。
私たちは、わかりあうことのできない何かを抱えているかに見えます。だけど果たして、それに実体はあるのでしょうか?
個人と個人の出会いとは関係のない背後で、いろいろなしがらみがあるとしても、そのしがらみの存在を見つめながら、それでも私たちは、個人と個人として出会うことができます。日本で育った私と、韓国で育ったあの子として。関係を築くのは私たちです。
そのことの重要さに、私は少し震えました。
今、戦後60年。
やっと私は思います。過去の戦争の話は、私の生きている今に、陸続きで続いているということ。そして、だけれど私たちは、何もできないわけではないということ。なぜなら私たちは現実に、今の世界に生きているということ。
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