それは台風が関東を直撃する日の朝でした。 メイン画像

それは台風が関東を直撃する日の朝でした。


[K] 日常生活

その日も自宅で徹夜でした。
朝までかかって何とか資料を作り終え、会社が始まる直前にネット経由でデータを送りました。あとはスタッフが校正し、部数を揃えて超速便に乗せてくれる手はずです。このまま寝てしまいたいけど、その日中にもう1本仕上げてしまわないと本当に穴を開けてしまいます。

期日に遅れた仕事をいくつも抱えてしまい、ここ数日で何時間寝たことでしょう。
ベッドに入ると起きられないことがあるので、限界が来るとそのまま床に転がってしまいます。1、2時間もすると節々が痛くなって自然に目が覚めるので、起き上がってまた仕事にかかるという段取りです。何とも合理的な仕事法です。

......そんなわけはありません。こんな仕事の仕方が効率的でないことはわかってはいるのですが、追われはじめたら、眠かろうが、痛かろうがやるしかありません。ときどきやらかす抜けやミスや大ポカなんて付き物です。そんなことを一々省みる暇もないのです。

そう、付き物なんです。

その日は台風が関東に迫っており、夕方には横浜近辺を直撃する予定でした。
その日中にやるべき仕事は資料作りで自宅でもできる仕事だったのですが、台風の進路によってはスタッフに仕事を止めさせて帰さないといけませんし、停電とかを考えるとサーバを落としたりバックアップを取ったりといろいろやることがあり、私が会社に行かないわけにはいきません。ちょっと休んで昼前には出よう。そこでいつものように床で1時間ほど仮眠し、シャワーを浴びようとパンツとシャツになってはみたものの元気がわきません。

とりあえずタバコでも吸うか。
自宅は室内禁煙で、タバコは2階のベランダで吸います。昨晩の風雨も今は収まっているようだし、今のうちに吸って、ついでに2階の雨戸も閉めてこよう。2階のベランダは書斎と和室の二部屋から通じています。普段は書斎から外に出るのですが、その日は雨戸を閉めようとまず和室に向かったところ、窓際にサンダルもあったのでそのまま外に出て先にタバコを吸うことにしました。

外は風は強いものの、雨は収まり風に混じって水滴が飛んでいる程度でした。
「フーッ」
あ?徹夜明けのタバコは全然うまくないや。なんでこんな思いしてタバコ吸ってんだろう。あ?ぁ、今日はこのまま家でやりたいな?。
普段は立って遠くを見ながらゆったり一服するのですが、今は風も強いし、パンツとシャツだし、近所から見えないようにかがんで火をつけました。でも、その体勢も疲れた身体には楽ではありません。それにちょっと自分が惨めに思え、まともな発想は浮かんできません。

うじうじ考えずに行かなきゃ。よし、やることやって行こう。
一口だけ吸ったところで立ち上がり、タバコを吸いながら行動に移ることにしました。とりあえず、こっちの雨戸を閉めてっと。自宅の雨戸はシャッター方式で、片手で簡単に下ろせます。

ガラガラガラガラガラガラ......。ん?......??
ガラガラッ、ガシャン。

シャッターを下のほうまで引き下ろしたとき、一瞬何かが気になって手が止まったのですが、もう思考力がありません。考えなくてもシャッターは片手で軽々下ろせるし、片手でタバコを吸いながらもう片方の手でしっかりシャッターを下ろしました。あとは私が書斎側に回って......、あっ!

昨晩からの暴風雨で書斎の窓は開いているわけはありません。そして今出てきた和室側の雨戸はしっかり自分の手で閉めてしまいました。それも外から......。
ということは台風が接近しているまさにこのとき、私は2階のベランダに締め出されてしまったわけです。もちろん、家の中にはもう誰もいません。風は次第に強くなっているようですし、雨も時折私の肌を激しくたたきはじめました。

小さいころ、鍵っ子だった私は2階の自分の部屋の窓の鍵はいつも開けていました。そして鍵を持って出るのを忘れた日は、塀や雨どいをつたって屋根によじ登り、2階の窓から家の中に入ったものです。
今、2階のベランダにいるのに窓は開いていません。サッシを割って入るにも適当な道具はないし、それに今晩は台風が直撃します。何とか下に降りられないかと手すり越しに周囲を見渡しても何の足場もありません。手すりも太く丸い金属でこの雨の中だととても指がひっかかってくれそうにありません。

この家は小さいけど防犯は完璧だな。疲れた頭ではまともな思考は無理なようです。
いっそ手すりに登って飛び降りるか。4メートル。いや、もっとあるな。下も固そうだし、足首は持つかな。ねんざか骨折でもしたら来週の大事な出張がダメになるかもしれないし。飛び降りるなら、あの車の屋根の上しかないな......。
よしとばかり決断しようとしたとき、大切なことを思い出しました。そう、下に飛び降りたところでそこは家の外で、1階も鍵はかかったままです。しかも私はパンツとシャツだし......。それだけでなく、まだ顔も洗っていなくて、髪はボサボサだし、無精ヒゲだし。

この格好で家のまわりをうろうろしたり、覗き込んだりしてたら怪しいよな。ご近所に助けを求めて駆け込んだりすると、あとあと噂が尾を引きそうだし。
リスクを冒して飛び降りたところで打開策になりそうにありません。あとは何とかして家族と連絡を取るか、家族が帰ってくるのをじっと待つか。待つとなれば夜8時ごろだろうし、今から10時間。これは長期戦覚悟だな、雨が強くなったらどうしよう、トイレにも行きたくなるよな。

幸い自宅の脇が遊歩道の終点辺りに位置し、昼間もパラパラ人通りはあります。もし誰かが通りかかったら、今はみんな携帯を持っているだろうし、呼び止めて家族に連絡を取ってもらおう。そうすれば、1時間くらいで何とか戻ってきてくれるだろう。
作戦は決定です。もうこれしかありません。しかし......。

この日はさすがに台風のためか、なかなか人が歩いてきません。この近辺は高齢者所帯が多く、たまに誰か通っても携帯など持ってなさそうなお年寄りばかりです。
えり好みしている場合じゃありません。どうせダメ元だ。次に来た人に声をかけよう。
「すみません」
傘をさしているし、風も強いためか、まったく気づいてくれず通りすぎて行きました。私も恥ずかしさもあり、声が小さかったのかもしれません。
よし、次、今度こそ。
「すみません、すみませーん」
今度の老夫婦は何かに気づいたらしく、周囲をきょろきょろしていたのですが、まさか頭の上から呼ばれているとは気づかなかったようです。
やっぱりお年寄りはダメだな。気づいてくれてもそのあとの説明も大変だ。
その後、数名のご老人を見送り、若い人を待つことにしました。風も強くなり、身体もだんだん冷えてきます。そうこうしたとき、若そうな男性がこちらに歩いてきます。よし、これだ。これしかない。真下に来たら行くぞ。

「スミマセーン!」
さすがに若いだけあり、一発で気づいてくれました。振り返り、私のほうを見上げると、少しオタクっぽい雰囲気ではありますが、確かに20代半ばくらいの男性です。よし、やった。
でも、そのオタクっぽい男性は何となく不審そうな顔つきで、後ずさりしながら離れようとします。
「あ、すみません、今?、間違って?、外から雨戸を閉めてしまって?......」
声が風に打ち消されそうになりますが、伝わってはいるようです。でも、不審な顔つきは変わらず、無表情です。
「それで?、携帯で?、家族に連絡を取ってほしいんです」
やっと事の成り行きを理解してくれたようで、口を開いてくれました。
「あ、でも、今日、携帯を持ってきてないんでー。すみません」 へっ?
そう言い残すと男性は振り向いて急ぎ足で立ち去ってしまいました。

ナニー。若い男が携帯忘れただとー。適当なこと言いやがってー。携帯を持ってないんだったら、走って誰か呼んでこいよー。
......などと八つ当たりしても仕方ありません。次を待つだけです。でも、お年寄り、お年寄り、次も......、あ、これはどうかな。50代くらいの主婦らしきご婦人です。携帯どうかな。でも、迷ってる場合じゃありません。

「スミマセーン、スミマセーン!」
ご婦人は真下で立ち止まってくれ、すぐに上を向いてくれました。優しそうな顔立ちの女性ですが、やはり表情は固まっています。台風のこんな日に、誰しも呼び止められたくはないでしょうが、そんなこと構っていられません。
「あ、すみません、私はこの家のものなんですけどー、今、間違ってー......」
今度は絶好のポジションですので、それほど大きな声を出さなくても聞こえるようです。
「それでー、家族に電話してほしいんです」
ご婦人は相変わらず無表情でしたが、今、買い物をしてきたらしい、膨れたバックをあさりはじめ、携帯を取り出してくれました。やったー。
「電話すればいいんですか?何番?」
「あ、はい。番号は......。会社なんですけど、●●を呼び出してください」
ご婦人はダイヤルを回し、すぐに電話がつながったようで、説明をはじめました。ところがなかなか要領を得ないようで、同じ説明を何度かしているようです。どうしたんだろう、いないのかなー。伝言だけでも伝えてくれよー。
私が電話を替われば話は早いのですが、2階のベランダにいるわけですからそうもいきません。少しやきもきしていると、
「今、電話に出られているんですが、どうしたらいいですか?」
「帰ってくるようにー、言ってください」
それからまたご婦人は少し電話でやり取りし、電話を切りました。ちゃんと伝わったんだろうか、ドキドキする一瞬です。
「すぐに戻って来てくださるそうです」
「あ、どうもありがとうございます。助かりました。どうもありがとうございます」
私は何度かお礼を言い、後日、改めてお礼ができるようにお名前を聞こうとしましたが、ご婦人は軽く会釈するとそのまま傘を翻し、立ち去ってしまわれました。

とりあえず、一安心。あとは家族が戻ってくるのを待つだけです。私は疲れと眠気と恥ずかしさで、ベランダに座り込み、そのまま仰向けに寝ころんで待つことにしました。空は低く、暗い雲が勢いよく流れていました。でも、こんなに空をぼんやり眺めたのも久しぶりです。ゴーゴーと音を立てる強風も、体に落ちてくるかすかな雨粒も、不思議と心地よく感じていました。

さて、ほどなく家族が戻ってきてくれ、無事、家の中に入ることができました。そして、大笑いして一件落着。ただ、後からわかったことが1つ。ご婦人が電話をしてくれたとき、しばらく要領を得ない時間がありました。そのとき、電話の向うでこんなやり取りがあったそうです。最初に電話を取った女性が私の家族に向かって、
「今、●●さん宛に電話が入っているんですけど、この電話、変なんですよ。きっとオレオレ詐欺ですよ、切っちゃいましょうか?」
何てことをー。そのまま切られていたら私はどうなっていたことか。それより、命の恩人とまでいうと大げさだけど、助けてくれたご婦人になんて失礼なことを。

助けてくれた方。お名前も聞かないままでしたが、本当にありがとうございました。

ベランダ そら
締め出されたベランダです。 こんな空を見あげていました。
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