こんな母になれたらいいな
私の母は還暦をすぎたばかり、まだまだ元気なので、これまで育ててもらったお礼を言う機会は照れくさくてなかなかないのですが、もし言うとしたらこんなことでしょうか。
「[よ] はがんばればできるんだからね」
「はじめは誰だってできないのよ。練習すれば上手になるんだからね」
困難にぶつかったときも、こんな言葉に励まされたから今日までがんばってこれたよ、と。
どんなことでも初めはできない、練習するうちにできるようになる。
そんな当たり前のこと、言われなくてもわかっているはずなのに、普段はつい忘れがちになります。
しかし、最近は娘さくらの成長が平均よりゆっくりなのを見守りながら、あらためてその言葉に勇気付けられています。
さくらも無事1歳半になりました。
これくらいになると、ほとんどのお子さんはしっかりとした足取りで歩いたり走ったり、元気いっぱいです。
しかし、彼女はいまだ歩けずハイハイで行動しています。
何かにつかまって立ったり、伝え歩きはできるのですが、どうしても支えがない状態で立ったり歩くことができません。
早産で未熟児だったので、成長は標準よりかなり遅れることは医師からも言われていますし、覚悟もできていました。
しかし、思ったよりも元気に成長し、伝え歩きまではそこそこ平均的な時期にできたため、このまま順調に成長するのでは、と淡い期待をした私もよくありませんでした。
近所の公民館には小さな子供が遊べる「プレイルーム」があり、毎日たくさんのお子さんが遊びにきます。
さくらもよくそこで遊ぶのですが、お母さんの間ではだいたい「今どれくらいですか?」という話題から話が始まります。
体の大きい子、小さい子、ハイハイや歩くなどの成長が早い子遅い子、聞いてみて「なるほど」と思ったり
「え、まだ○カ月なのに、もうそんなことができるの!」と驚いたりいろいろですが、私が一番驚いているのは、まだ1歳になってないのに歩けるお子さんも多い、ということです。
最近までは「うちは1歳過ぎているんですが、まだ歩かないんですよ 」とわざと明るく答えていました。
しかし、さくらと同じくらいのお子さんが当たり前のように歩いていたり(ハイハイなどもうしません)、たぶん1歳になっていないお子さんでもよちよちと歩く光景を目の当たりにするうちに、ハイハイでしか移動できないさくらをふびんに思うようになっていきました。
そんなある日曜日、夫が仕事だったので私たちはいつものように公民館のプレイルームに行って遊んでいました。休日は家族で出かける人が多いのか、プレイルームは閑散としています。
その日も私たちしかいませんでしたが、そのうち両親に連れられた女の子がやってきました。その子はたぶんさくらより小さいのに、ボールを追って歩いたり、ときどき走ったりもしています。表情はさくらよりも幼いのに、動きはさくらをとっくに抜いているのです。
私は急に切なくなり、そのご両親から「お子さんはどれくらいですか?」と聞かれるのが怖くなったのです。幸いご夫婦で何か話し込んでいるようで質問されることはなかったのですが、そんな気持ちになった自分に驚きました。
さくらはたぶん歩けないのではないのです。
もし歩くことができなくても、それは隠すことでも、恥ずかしがることでもないのです。
悪いことをしている、人に迷惑をかけているのではありません。
今を精一杯生きていることに誇りを持ち、堂々としていればいいのです。
成長のスピードは競争ではない、その過程もまた個性なのです。
ふと自分の母がこれまで私に勇気付けてくれた言葉を思い出しました。
「[よ] はがんばればできるんだからね」
「はじめは誰だってできないのよ。練習すれば上手になるんだからね」
その言葉に何度励まされたことでしょう。
そうだ、やればできるんだ、時間がかかっても練習すれば上手になるんだ!
さくらもときどき1人で歩こうと足をふんばっていることがあります。彼女は少し臆病なところがあり、自信がつかないと次に進めないタイプのようで、今は自信をつけようと彼女なりにがんばっているのだと思います。
それなのに、私はそんな娘を恥ずかしいと思うなんて。そんな自分こそ恥じるべきですよね。
まだ言葉は通じないけど、「練習すればできるようになるからね、がんばってね」と話しかけています。
彼女が今後成長していく中でいろいろな壁にぶつかったときも、そうやって励まし、がんばる勇気をあげられる、背中を押してあげられる母親になれたらいいな。
心からそう思いました。
私だって支えがあればタッチできるんだもん! | 歩くよりも、食べるほうに興味ありありなの^^; |
「モチモチ♪」宇宙語を話すのも得意よ?歩けなくったって平気だもん! | 公園でもどこでも、私はハイハイで行くわよ!(歩けるようになると逆にこの姿は見れなくなるから貴重かもしれませんね) |