もしロックな楽器屋の店長がビジネス書を読んだら...
先日帰省したときのことです。
暇を持て余していた私は、ふと無性にドラムが叩きたくなり、近所の楽器店へ行きました。
多くの楽器店には練習や簡易レコーディングに利用できるスタジオが併設されており、ドラムセットも置いてあります。
バンド単位の利用客がほとんどですが、もちろん個人練習で訪れる人もいます。
地元が田舎なので、10代の頃は自分の家にドラムセットを置き、近所迷惑もかえりみず叩きまくっていました(もちろん昼間に)。
いつしかそのドラムが姿を消してからは、たまにスタジオに行って叩くようになりました。
スタジオは基本的に予約制です。でも個人練習に限っていえば、前もって予約を入れず、当日たまたま空いている時間を狙って行くのが私は好きです。もちろん、そんなに都合よく空いていることは少ないのですが、趣味の楽器なので、「演奏したい」と思ったときに演奏するのが一番だからです。予約を入れてからとなると、やはり(ドラムの場合は)「叩き時」のようなものを逃してしまう気がします。
その楽器店は高校時代からのなじみの店です。ただ、私はのちに地元を離れてしまったので、ここ数年は帰省の折りに店の前を素通りするくらいでした。
ちゃんと店内に入ったのは数年ぶりのこと。すぐ、ある変化に気づきました。
入口に大きな時間割表が貼ってあるのです。
そこには、どんな講師が、どんな授業を、何曜日の何時に行うかといったことが細かく記してあります。
どうやら音楽教室を始めたようです。2部屋あるスタジオを覗くと、やはり授業らしきことをやっている!
正直いって驚きました。これまで20年近く、主に楽器・機材の販売、修理、(一部)製作などを行っていましたが、それがとうとう教育にまで進出したのです。たしかに、そこのオーナー兼店長は、自身もアマチュアのロックミュージシャンでありながら、楽器店を2件、レコーディングスタジオを1件経営するなど、ビジネスのほうでもなかなかの手腕を持っています。しかし別に、もともと教育に強い関心があったとか、本気で全国にチェーン展開していきたいとかいったわけではなく、お店自体はあくまで自分の好きな音楽を皆と楽しむための「趣味の店」といった感じです。まあ、当然といえば当然ですね。
それがなぜ今になって音楽教室など手がけるようになったのでしょうか。2つの理由が考えられます。
1つは、スタジオの空室率を下げるためです。スタジオはホテル業などと同じように、施設・設備を遊ばせておけばその分だけコストがかかり、利益が生まれません。考えてみれば、音楽教室を始める以前には、予約の入っていない時間は私や仲間たちのような気まぐれ者が使う以外、ほったらかしでした(そうしたルーズさが、むしろロックな雰囲気を醸し出しているように私たちには思えたのですが)。しかし、それほど詳しく聞いたわけではありませんが、おそらく店長は「これではいけない」と思ったのでしょう。実際、数年前から少し店に活気がなくなっている感はありました。
もう1つは、教室での授業を通じて「顧客を育てる」ためでしょう。これは、必ずしも楽器の演奏技術を向上させるといった話に限りません。教室があることで、授業料の収入が得られるだけでなく、生徒は楽器や教材をこの店で買い、また、家族や友人などにも口コミで広まる機会が増えるといった効果もあります。EXILEも幼児からを対象とした歌とダンスの学校を運営しているそうですが、それと似た発想です。現在の顧客を集めるだけでなく、将来の顧客を育てるわけです。ちなみに、店長にはもともとミュージシャンの知り合いが多く、講師を集めやすかったという強みもありました。
ちょっとビジネス用語っぽい言い方をするなら、こうした経営手法は「連結経営(=本業に密接にかかわる副業を行うこと)」と呼ぶそうです。公認会計士の山田真哉さんは、ベストセラーとなった『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(光文社、2005年)のなかでこの手法を紹介しています。山田さんは、ベッドタウンのど真ん中にあるのになぜか潰れない高級フランス料理店のケースを取り上げ、その店がお客の少ない昼過ぎから夕方にかけて主婦を対象としたフランス料理(とワイン)教室を開き、副業で利益を生み出しているのがその理由だと述べています。楽器屋の店長がこの本を読んだかはともかく、考え方としては同じものでしょう。
音楽教室を始めた今では、お店の雰囲気もたしかに変わりました。連結経営が効いているようです。
なじみの店がにぎわうのを見るのはうれしいのですが、一つだけ、個人的に残念だと思うことがあります。
それは、飛び込みでスタジオを利用することがほとんど不可能になったことです。少しでも空いている時間は、すぐ授業によって埋められてしまいます。これでは、「ふと」楽器を思いきり演奏したくなった人が利用できる場所ではありません。しかし、冒頭にも同じようなことを書きましたが、「ふと(=偶然)」気持ちが向かったときが、何かを実行する絶好のチャンスだといえる場合もあるでしょう。こうした偶然を受入れる余地がなくなってしまったのは手放しで喜べることではない気がします。もちろん、こうした感想は私の単なるわがままで、「また一つ、気まぐれに入れる場所がなくなってしまった」とぼやいてるわけですが...。