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転進

更新 2016.01.15(作成 2016.01.15)

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第7章 新生 84.転進

F信託銀行の広島支店は市電の本通り駅を降りた真正面にある。
平田は7時より少し前に着いたが堤はすでに待っていた。堤の隣には広島支店のコンサル担当の梶原が一緒にいた。
「どうもすみません。忙しいのに、大丈夫でしたか」
堤が平田を見つけて近寄ってきた。
「はーい。大丈夫です」
堤は支店の裏手にある寿司屋に案内した。暖簾は寿司屋だが店の中は小料理屋といった感じである。彼らはいつもここを利用しているのかもしれない。
奥まったところの畳の小部屋に予約の札が置いてあった。
一通りの料理を頼んだ3人はビールのグラスを軽く合わせた。
「改めましてお疲れ様です」
3人は「いつ東京から来たか」とか「仕事はどうか」とか一通りの世間話で場を繋いだが、話が途切れたところで平田から切り出した。
「ところで、今日はどうしたの。話ってなんですか」
平田はそう言ってお通しを箸でつまみ口に運んだ。
「平田さん、辞めるんですか」
堤は声のトーンを一段落として平田の顔を覗いてきた。
「なんだ、そのことか。もう知ってるの」
「はい。ちょっと小耳に挟んだものですから」
平田は梶原が言ったものと思って堤の横にいる梶原に視線を送ると、梶原は慌てて顔を横に振った。
セカンドライフ支援制度への応募者名は、厳格に秘匿される。確定後、支援内容の説明会で顔を合わすまでは本人たちも誰が応募したかはわからない。
こと、人事に関する限り人事部から漏れることはまずない。人事マン失格だ。人事が漏れるのは大抵役員の筋だ。
「そうか。俺はまた支援制度のことで何かトラブったかと思って心穏やかじゃなかったよ」
「すみません。そっちのほうは全く問題ありません。それよりも平田さんのことです」
「どうってことないよ。こっちだって全く問題ないよ。中国食品の社員が1人辞めるだけのことじゃないか。あんたらが心配したり騒ぐようなことじゃなかろう」
平田はそっけなく答えたが、彼らがあまり大げさにするもんだから
“俺も世間が騒ぐほどの存在か”と、一人悦に入って可笑しがった。
「簡単に理由だけ聞かせてもらっていいですか。人間関係のトラブルですか」
「いやー、そんなもんじゃないよ。人間関係では辞めないよ。そんな柔じゃない」
平田は手を振りながら否定し、強がってみせた。
「それじゃなんですか」
「簡単よ。前から言っている自立よ。人に言うばかりじゃなくて、自分も自立しようということです」
「なるほど、そうですか」
堤は納得したのか、深く考えるふうで暫く黙り込んだ。
平田は、“おいおい、お前さんも俺のまねをしようと言うんじゃないだろうな”と上から見下ろしながら可笑しさを堪えた。
「それで、辞めてこれからどうされるんですか」
「うん。まだ決めていないがどこか新しい会社を探すよ」
「それじゃ自立にならんのじゃないですか」速射砲で切り返してきた。平田の考えを詰るような響きさえ籠っていた。
平田は、人のことなのに随分と深くからんでくるなーと思いながら、ご馳走になる手前、一宿一飯の恩義にきちんと答えてやろうと考えた。今更もったいぶっても仕方がない。
「そうじゃない。これまでのしがらみとか、会社への思い入れとか、拘りとか、それらが全てご破算になる。それらを捨てて、自分らしい働き方を探すのよ。新しい旅立ちよ。カッコいいじゃないか」
最後は少しおどけてみせた。
「自分らしい働き方ですか。それってどんなんですか」
「まあ、俺は本来、技術屋だけど今は完全に人事マンになってしまった。技術に関わった時間の何倍も人事に携わってきた。エネルギーは更に何倍も注いできた。だから、やっぱり人事に携わる仕事がいい。そして今まで背負ってきたものを全て脱ぎ捨てて、純粋な気持ちで人事と向き合ってみたいのよ。こんな言い方をすればキザに聞こえるが、要するに人事制度とか人事の仕組みとか、人事のシステムを何のしがらみもなしに根本からもう一度作ってみたい。俺の夢でありロマンだな」
「そうですか。会社を辞めてまでもやりたいですか」
「そうだね。俺はかねてより55になったら後は自分のために働こうと思っていたんだよ。自分のやりたいことが出来る仕事、それが一番自分のためじゃないかい。それが少し早くなれば一番いいし、ならなくても55才まではしかたがないと思っている」
「会社で作った信用とか地位とかは要らないんですか」
「そうだな。あんたらはそんなものをどこまで持っていくつもりかしらないけど、どっちにしてもそんなものは定年になれば白紙になるし、後生大事に抱えておればかえって老後の邪魔になる。それほどありがたいものとも思えんけどね。肩書って運命の悪戯だったり、ごますりでなったり、必ずしもその人の実力や価値、人間的魅力の物差しじゃないよ。肩書をひけらかす人もいるけど、俺はそういう人を見ると虫唾が走る。それよりも自分らしく生きていくほうがどれだけ充実するか」
「なるほどですね。平田さんらしいですね」
「そんなことないよ。普通じゃないかい」
「いやー、そうでもないですよ。普通の人はそこまで考えられません」
「それは何かに拘りがあるからだよ。金とか地位とか名誉とかね」
「それは誰でもあるでしょう」
「うん。あるだろう。特に若いときは志とか抱負とか、心に期すものがあるからね、拘りもある。だがそれが全てではない。もっと大事なものもあるってことよ。現に会社を辞めて自分のしたいことに転進する人は結構いるじゃないか。彼らは活き活きしている」
「まあ、そうですね」
「あなたたちがそう踏み切れないのは恵まれすぎているからよ。銀行という身分と高額な報酬、世間の人が羨むような処遇。だからそうおいそれと手放せないだけじゃないかな」
「そうでもないですけどね」
堤は一応否定したが、彼らの報酬は一般製造業の倍である。年金も含めた生涯収入は3〜5倍くらい差があるのではないだろうか。上位層にいけばいくほど格差は広がっていく。ここにいる堤くらいの課長クラスがちょうど世間の倍くらいの年収だ。
“特にこの堤はスプリンターだからもっといくだろう。1500万円はくだらない”と平田は読んだ。
「どこか当てでもあるんですか」
「いやー、そんなものはないよ。あんたらがいい支援制度を作ってくれたから、その恩恵に与りながらどこかそんな仕事をさせてくれる会社をじっくり探すよ。なんだ、そんなことを聞きにきたの」
堤はいやいやと首を振りながら思案顔で黙り込んだ。
平田がどうしたかと覗き込もうとしたとき、おもむろに顔を上げ、決心したように「うん」とうなずくと、とんでもないことを言い始めた。

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