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 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.6-89

これから

更新 2016.06.08(作成 2013.08.05)

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第6章 正気堂々 89.これから

新田、丸山会談から数日経ったある日、平田は新田から電話を受けた。
「おい、忙しいか。ちょっと遊びにこいや」
新田はときどき部下を部屋に招く。然したる用事があるわけではないのだが、雑談に託けて自分の考えをさりげなく諭したり、かねてからの懸案事項について確認したり、部下の悩みや疑問に答えたり、コミュニケーションの一法だ。
他の役員が俺は役員だぞという構えた関係を欲するのに対し、新田のこの気さくな雰囲気は他の役員にはない特技だ。つい気を緩めてしまう。
とはいえ、度を過ぎた非礼はやはり嫌う。それさえわきまえておればほぼ本音のトークができる。新田自身の政策や考え、アイデアでさえ異論をぶつけてもきちんと受け止めてもらえる。いや、そうした議論を通して新田は自分の考えを深化させているのだ。
他の役員は余程気をつけて反論しないと「俺に逆らった」と反感を買う。
新田は経理、総務、人事を統括する管理本部の本部長である。経理は4階、総務は1階、そして人事は8階にある。昔から中間である4階に常務室は設けられていた。
平田はエレベーターで下りて経理部の最奥の常務室の前まで突き進み、開放してあるドアから中をのぞき込みながらノックした。
平田を認めた新田は、「おう、入れ」と席を立ち、入り口から外に向かって「コーヒーを頼む」と誰かに頼むとドアを閉めた。
「異動案は見たか」
「はい。私の意見は聞き入れてもらえなかったようで」
平田は照れながら応えた。
「うん。お前の覚悟は立派だが会社とはそんなものじゃない。特に人事はいろんな人の立場や考え、思惑が複雑に絡んで決まっていく」
「はい。わかっています」
「お前は上がりたくないのか」
「いえ。私も欲がないわけじゃありませんから、全く嬉しくないわけではありません。感謝もしております。それに、偉くなるということは影響力が増しますから仕事はやりやすくなります。ただ、今回は制度をスムースに導入したかったものですから、そうしたほうがいいかなと真剣に考えた末のことです。けして思いつきではありません。それなりの決断もいりました」
「うん。わかっちょる」
「それでなくても風当りの強い制度ですから。そんなときに私が一番に昇格したら石を投げられるんじゃないかと」
「フッ、フッ、フッ」
新田は声にならない笑いを浮かべた。
「石を投げられるだけなら我慢もしますが、制度がつまずいては意味がありません」
平田も笑いながら本当の気持ちを吐露した。
「うん。論語の中にこういうのがあるのを知っているか」
「はぁ」
「『君子は道を憂えて貧しきを憂えず』というのがある。心配すべきは大事な大儀の成否であって、小さな差異に一喜一憂することはない、ということじゃ。お前も道を憂えてのことだと思うが、お前の昇格は貧しき例えのうちだと思う。役員会でも全く異論はなかった。それが会社の心だ。全役員の心を無にするな。堂々とやればよい。もう決まったことだ」
平田は、「すみません」と、照れながら頭を下げた。
新田が精神訓話を持ち出すことは滅多にない。人間に対しては極めてドライだし、徒党を組んだり派閥を作るようなベタベタした人間関係は嫌った。人との繋がりはあくまでもビジネスライクに徹し、考え方や方向性で評価していた。
それだけにこの例えも、新田には似合わないチグハグな印象を受けたが言いたいことは理解できた。
実際のところ、平田自身もそんな人間関係のほうが好きだ。志も刷り合わない者同士が徒党を組むのはただの野合だ。
「それでだな、これからどうする」
「はい。退職金をポイント化にしなければキャンセル給の変動を吸収できません」
「うん、そうか。今はどうしてる」
「はい。旧賃金制度をシャドウで運用して退職金の算定だけに使っています」
制度上程のとき、ちゃんと説明してあるから新田も十分知っているはずだが、話のステップとしてわざと確認している。
「大丈夫か」
そんな離れ業みたいなことが本当に上手くいくのか心配しているのだ。
「ここ1、2年のうちなら大丈夫だと思います。現実に影響があるのはこの間に辞めていく人だけですから。ご心配はよくわかりますが、他社さんでもインフレを退職金に影響させないために二重賃金を運営されているところは結構あります。ポイント制だってある意味二重賃金です。それにシャドウとはいえ、今までどおり配分については組合ともちゃんと交渉して書面化しますので混乱することはありません」
「それもそうだな。それでうちの場合は得するのか損するのか」
「両方あるかと思います。新制度で大幅に賃金がアップする人からみるとそれが反映されないじゃないかということになりますし、逆に賃金が下がる人からみるとラッキーということになります。会社にとっては旧来どおりですからプラマイ0です。しかし、いずれにしましても何千万、何百万のうちの1年分の誤差ですから1、2年の間でしたら問題はないかと思います」
「それで、ポイント化はやれそうか」
「はい。仕組みそのものはそんなに難しくありませんが、理念のところで賃金を含めた人事制度全体の考え方にどう乗っけるかと、水準をどう抑えるかが苦心のしどころでしょう」
「人事制度の理念と別にこさえるのか」
「いえ。今回の理念は、人事制度だけのことではなく人事全体の考え方や行動の規範となるものですから、退職金、年金もその支配下にあります。別に理念を作るというより、それに則って考え方を整理するということになると思います」
「今は違うのか」
「違うというか、今は個々の制度に理念めいたものはありませんで、退職金はその支給方法が勤続係数に拠っていますから長く勤めることがいいことだという考えになります。ところが今回の人事制度は現在の実力とか成果を評価すると謳っていますから、チグハグさはぬぐえません。特にセカンドキャリア支援制度なんかは、年功的に長く会社にしがみつくだけでは評価されません、自分を生かす道があれば外に出て行ってもいいし逆に力のある人はいつでも雇用します、というそんな理念ですから退職金だけが勤続係数ではまずいと思います。退職金も今の実力や貢献に応じたポイントを積み上げるようにしないと、チグハグな制度になって社員にはわかりにくいかと思います」
「うん。なるほどのう。そういうことだな。それでどれくらいかかりそうか」
新田は、納得したように自分に言い聞かせ、少し面倒なことになるのかなと顔を曇らせながら尋ねた。
「はい。一つ問題がありまして……」
そう言って平田は新田の聞き入れ体制が整うのを待った。

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