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啐と啄

更新 2016.06.08(作成 2013.02.25)

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第6章 正気堂々 74.啐と啄

「どうかね。忙しいかね」
2人の間には、本人たちの意思とは無関係に社内の人的パワーによって投げ込まれた時間の空白があった。2人はそれを紡ぎ合わせるように、他愛もない会話をぎこちなく交わしながらコーナーを挟んで斜向かいに座り合った。そのほうが話しやすいという心理が、自然に身体をそう動かした。
「ええ、まあ」
荻野もそんな空気を意識しているようだ。照れか悔しさか、少し口元を歪めて苦笑いを浮かべながら取り繕った返事を返した。
しかし、そこには古い旧友に再会した懐かしさがあった。
「こうやってちゃんと話をするのも久し振りやな」
「なんだかんだと厄介なことが多かったですからね」
「で、どうしたん。また改まって」
平田は両手で挟んだコーヒーを啜りながら、そろりと水を向けた。
「実は、不安でしょうがないんですよ」
荻野は小心なのか注意深いのかよくわからない。筋が通らなかったり運営が気に入らないときは、例え相手が先輩だろうと上司だろうと正面から異議を唱え、大胆に談判に及ぶ。
そうかというと、自分が頼みとする上司から少しでも疎外感を示されると、もう人生の終わりかと思うような落胆振りをする。
一体、どっちが本性なのかわからないところがある。
「何が不安なんだ」
荻野が歯切れの悪い語りなので、状況を理解するのに少し時間がかかった。
「どうも企画の中で浮いてしまっているようなんですよ。周りの人に阻害されているような気がしてしょうがないんです」
「うん。どういうことよ?」
「みんなの対応がよそよそしいんです。何を話しかけても上の空の返事しか返ってこないし、仕事を尋ねても誰も答えてくれないんです。このままじゃ自分は潰されてしまいます。早く電算に帰りたいですよ」
「ふーん。そうなんか。それで、何か心当たりのようなことは?」
「特には……。一生懸命やっているんですがね」
平田はしばらく考えた。総合企画の人員構成や人間同士の繋がりや関わり方、特に川岸との関係を注意深く推測した。
確か、自分が人事に来たときも同じようなことを感じた。その時は立場が全く逆だった。
「俺が人事に来たときのことを覚えているか。あのときお前は、『大丈夫ですよ。自分を信じて思い切りやることですね』って言ったんだよ」
「そんなことありましたかね」
「うん。来てまもなくの頃だったな」
古い記憶が平田に甦ってきた。
「人の悩みなんて他人から見ると取るに足らぬことがほとんどだろ。だから他人は記憶の淵からすぐにこぼれ落としていくけど、本人は大真面目だからしっかり覚えているもんでね。俺もよく覚えている」
「そうですか。そんなことがありましたか」
荻野も思い出したようだ。
「たぶんそのときとそっくりな感じがする」
「このままじゃ不安で眠れないんですよ」
荻野は神経質だ。特に人間関係には敏感に反応し、真剣に考え込んでしまうところがある。
「そうだな」
平田は少しもったいぶって考える素振りをした。そして徐に、
「お前は企画の人間か。電算の人間か」と大上段に切り込んだ。
平田は、自分と違うところはここだと思った。自分は必死で人事の人間になりきった。人事の仕事に寝食を忘れて没頭した。荻野だって一生懸命仕事をしているだろうが、荻野と自分が違うとすればここだ。
「川岸さんに2年後に電算に返すと言われているんです。今は早く帰りたくてしょうがありません」
「そんな取引をするからよ。片足を電算に残していつでも逃げられる体制を作っておいて、どこまで本気で相手できる?電算の技術や人脈はお前の財産や。それは大事に生かさないかんが、企画マンとしては退路を絶つ覚悟がないと人は本気に思ってくれんやろ。俺はそう思うよ」
「しかし、そんなことは一言も喋ってないですよ」
「言う、言わないじゃなくてお前の心根だと思う。何となく臭いが滲み出てくるんじゃないか」
「……」
平田は少し言いすぎたかと思ったが、荻野は胸の内に思い当たることでもあるのか下を向いて考え込んだ。
恐らく次に電算に帰るときは課長としてだろう。ただ思わぬところで部内の人間関係につまずいた。平田はそんなところだろうと推測した。
「要するに人材不足なんよ。俺のときもそうだったように、川岸さんは仕事の質やレベルを人に求めるだろ。だから川岸さんが自分の思うような仕事をしようと思えば一本釣り人事をせざるを得なかったんやろう」
「新田さんは違いますか」
「うん、俺は違うと思う。そりゃあ、欲しい人材もあるだろうけど新田さんは与えられた勢力で戦おうとされる。そうすると仕事の出来栄えは当然そのレベルになってしまうから、それをなんとか補わなくてはならない。新田さんはそれを自分の力でカバーしようとするんよ。それができるのはご自分で勉強して自信があるからだろうし、よう考えなさるよ。いろんなアイデアも出される。それを俺たちにぶつけて一緒に成長しようとされる。川岸さんの場合は俺たちに求められるから苦しいところがあるよね」
「その分力がつくんじゃないですか」
荻野は、今自分が苦しんでいる発端のことをすっかり忘れて、今の現状に肩入れするような言い方をした。
「鍛えるということかな」
「そうですね」
「運動クラブのシゴキのように聞こえるな」
荻野はフフフンと鼻で笑った。
「じゃが、人はやる気と責任感があれば機会さえ与えられればやるさ。鍛えるのは場を与えることじゃないかな。それで十分だよ。だから俺は到達レベルは同じゃないかと思う。いろいろな考え方や性格、マネジメントの方法に違いはあるけど、要は本人が何を学び何を吸収するかだろう。育てようとしても人は育つものじゃないよ。育とうとする者が育つのさ。“啐啄同時”ってそうじゃないか。啐があるから啄がある。相手が誰であろうと信奉するものがあれば何か学べるさ」
今置かれた状況をそれとなく分析して、原因の発端だけはハッキリした。
人事異動が思わぬところで人の心のひだにイタズラを働いていた。

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