ナビゲートのロゴ
ナビゲート通信は主な更新情報をお届けするメールマガジンです。ご登録はこちらから。

下記はページ内を移動するためのリンクです。

現在位置

 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.6-64

親代わり

更新 2012.11.22(作成 2012.11.22)

| ←BACK | INDEX | NEXT→ |

第6章 正気堂々 64.親代わり

中国食品では、今使っている社長室がそのまま会長室に名前替えし、それまでの役員応接室が社長室に改装されて大西新社長が入った。
大西は若いころ柔道をやっており、身体がでかくユッサユッサと身体を揺すって歩く。敬虔なクリスチャンでジャガイモのような顔はどこか人の好さが滲み出ていた。しかし、経営者としての才覚は必ずしも明敏とはいえず、樋口という偉大なカリスマの前に自己を主張することは皆無であった。
総会後樋口は会長に退いたが、樋口のカリスマは健在で大きな政策や方針はこれまでどおり樋口が決定し、経営の実権は樋口から離れることはなかった。
大西は意思決定にはほとんどその存在感を出すことがなく、役員会の決定事項に対する遂行監視役のような存在だった。
樋口が会長になり大西が社長に就任したことに伴って、堀越が専務に、四天皇のうちまだ無役に置かれていた新田と川岸が常務取締役に昇格した。
先日、マル水に帰った北尾に代わって経理部長に昇格したばかりの野木も取締役に昇格した。
こうした一連の人事が、樋口の裁量によることは誰の目にも明らかで、樋口への権力集中とそこへの忠誠行動は変わることがなかった。社内の人心も樋口から離れることはなく自然な流れの中で樋口―大西体制へ移行し、トップ交代の混乱や影響は全く生じなかった。ただ、組合だけが二頭立て政治に対する無駄や混乱を折に触れ批判したが、労使問題として紛糾させるほどの本気さはないようだ。

5月の初めになった。
そんな政権交代劇の表舞台とは一線を画し、「晴耕雨読だよ」と静謐な隠居生活を送っていた後藤田が脳梗塞で入院した。平田はつい先日、新田とのやり取りの最中に思い出したばかりでなにやら虫の知らせのようで不思議な感じがした。
平田は両親を比較的早くに亡くしている。
親を亡くしたとき、平田は「あー、俺はこれで天涯孤独になった」と物凄い寂寥感を抱いたものである。九州の故郷には兄弟もいるが、親が居ればこそ帰るのであって帰る喜びは比べものにならない。親の存在感なんて亡くして初めてわかるものだ。
そのせいか後藤田の存在は何か親代わりのようでどこか心の拠りどころとなっていた。
その後藤田が危ない。あの悲しみが再びやってこようとしている。
こんな時その存在感を出すのが豊岡だ。その情報収集力と的確な指図が旧組合メンバーや人事部メンバーに大いに役に立つ。
「病は比較的軽いらしいが病気が厄介なだけに、大勢そろって見舞いにいくようなことは慎むように。行くときは症状が落ち着いたころにするように」
豊岡はこういうとき盟主にでもなったように采配する。
平田が見舞いに行けたのはおおよそ1カ月くらいたった5月に入ってからだった。
ドキドキしながら病室の前に立ち、全神経をそばだてて神妙にドアを叩いた。
「はい」
中からはわりとしっかりした声が返ってきた。
恐々とドアを押すと、
「いやー、よく来てくれた」
いつもの落ち着いたトーンで、顔が崩れた。
症状としては比較的軽いらしく後藤田は案外と元気だった。どんな具合かと神妙な気持ちでハラハラしながら訪ねた平田は、少し拍子抜けがするくらいだ。
後藤田は本を読んでいたらしく、ベットの背もたれに寄りかかり文庫本に栞を挟んで横の棚の上に置くところだった。
「もう起きてて大丈夫なんですか」
「なーに、大丈夫なんだよ。急に動いたり激しい運動をしなければどこも悪いところはないんだから」
後藤田は笑いながら整髪のできない頭を撫でつけた。
悪いからこそ入院しているのじゃないのか。平田は可笑しかった。
無精ひげも伸びているせいか少し老けて見えるのが寂しかった。後藤田には元気で居てほしい。
たまたま奥さんは着替えなどを取りに家に帰っているらしく、個室の病室は後藤田一人だった。
「心配かけて済まないね」
「とんでもありません。でもビックリしました。今日まで気が気じゃありませんでした。症状が落ち着くまで行くなと止められていたもので遅くなりました」
平田は見舞いが遅くなったことを言い訳した。
「誰がそんなこと言うの」
「豊岡さんです」
「そうか。そのわりには彼は早く来てたな」
「そうなんですか。ずるいな」
「ハッハッハッ……」
後藤田はそんな豊岡の調子良さを思い切り笑い飛ばした。
「でも、思ったよりお元気そうで安心しました。それで具合はどうなんですか」
「うん、軽い脳梗塞でね」
「脳梗塞ですかー」
「うん。脳の血管が詰まるんだよ」
若い平田には血管が詰まるなんて実感が湧かず、物凄く残酷な行為を見るようで眉をひそめた。
「血管が詰まるんですか。それはまずいでしょう」
少し大仰に驚いてみせた。
「うん。脳の血管の病気にな、脳梗塞と脳溢血とがあって、血管が詰まって血が通わなくなり脳が壊死してしまうのが脳梗塞だ。血管が破れて血液が脳内に溢れ出し脳に障害を起こすのが脳溢血だ。両方を合わせて脳卒中と言うのだそうだ」
後藤田は、入院中に医師か誰かから聞いたのであろう、脳の病気について詳しく話してくれた。
「なんで血管が詰まったりするんですかねー」
「うん、そうだな。古い水道管に錆やら垢やらがこびり付くだろう。あれと一緒で血管にもウロが溜まるんだよ。それがいっぱいになると血管を塞いでしまう。そうすると血が通わないから脳が壊死する」
「ウーン。怖いですね」
「コレステロールとか中性脂肪が溜まって血管を塞ぐのが脳梗塞で、血管の中に血の固まりができそれが血管を塞ぐのが脳血栓というわけだ」
「そうなんですか。やっぱり食べ物とかが影響するんですかね」
「うーん。なんだかんだだろう。長年の不摂生が祟ったんだよ」
「なにか、予兆のようなこととかはなかったんですか」
平田は後藤田の不摂生を詰るように思わず詰問調になった。
「うん。その直前までは何もない。倒れる少し前くらいから物凄く頭が痛くなった。風邪引いたときのキリキリやズキズキと違うんだよ。大きな万力でギュッギュッと締め付けられるようで頭が割れるように痛かった。あれはきつかった」
「そのとき救急車かなんか呼んだらなんとかなるんでしょうか」
「うん、呼べばいいんだろうがこんな病気とは思わないし気がついたら病院だった」
「そうなんですか。でも思ったよりお元気そうでホッとしました」
「だが、この次発症したらその時はお終いらしい。君ともこれが今生の別れかもしれんぞ」
後藤田は冗談とも本気ともつかぬ口調で苦笑いをしてみせた。
「そんな怖いこと言わないでください。まだまだ長生きしてほしいです」
後藤田は黙ってうなずいていた。
「また、鮎を持って行きます」
「うん。あれは旨い。それまでに退院しておかんといかんな」
後藤田がそのために急いで退院しそうな雰囲気だったため、平田は慌ててとりなした。
「いえいえ、慌てないでください。いつでも持って行きますからゆっくりご静養なさってください」
「うん、ありがとう。ところで川岸君は元気にしてるかね」
鮎の話で急に思い出したように尋ねた。
平田は“うん?俺に聞くのですか”と不思議を感じた。
「はい。新しい体制になりましたので忙しくしておられます」
「そうか。頑張ってりゃいいや」
「はい」
後藤田の、どこか沈んだ表情を気にしながら病室を後にした。

「正気堂々」についてご意見をお聞かせください

▲このページの先頭へ

お問い合わせ・ご連絡先
Copyright © 1999 - Navigate, Inc. All Rights Reserved.