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 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.4-17

更新 2008.10.15(作成 2008.10.15)

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第4章 道程 17. 歩

社内に派閥として明確なものはないが、川岸には営業所長時代から『ト金会』なる有志の仲間がいた。仲間といってもほとんどが自分を慕う部下たちで、川岸の熱意を意気に感じた者たちが自然発生的に集まったものだ。
会の主旨は、“俺たちは将棋の歩みたいなものだ。しかし、将来きっと力をつけてト金(成金)になり、大暴れして大きな仕事をしようじゃないか”というものだ。川岸はまだ営業所長であり、政治的駆け引きや派閥形成などを意識したことはない。純粋に志を高く持とうという心根のありようにすぎなかった。
しかし、人事部長に抜擢された時点から派閥的色彩をおのずと帯びてくるのは仕方ないところである。川岸自身はさりげない運営を望んだが、彼を慕う若い連中の意気は高くなるばかりだ。営業所の連中だけならまだ問題はなかったが、本社の中にも加入してくる者がおり、次第に人数が増えてきた。
ト金会の存在を耳にした樋口は顔を曇らせた。樋口にとって取るに足らない小さな存在に過ぎないはずだが、派閥の存在そのものを嫌った。派閥には利害得失が付きものだ。そのため物事の是々非々ではなく派閥の論理で政策が歪められる危険性がある。それを樋口は懸念しているのだ。
樋口は川岸を社長室に呼び出した。
「なにやら、変てこな会をこさえとるらしいな」
いきなりの問い詰めに、川岸はぴんと来なかった。
「はぁ、なんのことでしょうか」
「とぼけんでもよろしい。お前さんを頭に何とか会というものを作っているそうじゃないか」どこかで聞き出したのか、それともアンチ川岸派がご注進に及んだものなのか、樋口の口調は冷たい詰問調だった。
「あのー、もしかしてト金会のことでしょうか」
「そう、それそれ。そんなもん作って何する気じゃ」
「あー、このことですか」川岸は問われている意味がわかって少し安心した。もちろん後ろめたさなど微塵もない。
「この会はト金会と申しまして私が所長をしていたころ、所の若い者たちがこさえたものです」意味がわかれば胸を張って説明できた。
「私は常々こう考えておりました。営業所のこの連中は組織の底辺を支える者たちです。将棋に例えますと言わば歩のようなものです。学歴もなければ人脈もありません。自分の汗と知恵だけで頑張っている連中です。会社の発展の影では彼らの血の滲むような奮闘があるのです。その彼らがいなかったら会社は成り立ちません。彼らにそっぽを向かれたら業績は落ち所長なんか吹っ飛んでしまいます」
川岸は樋口がどんな疑惑を持っているかわからなかったが、どんな些細な疑惑であれそれは晴らしておかなければならなかった。まして誰かの意地悪な作為を感じるだけになおさらであった。
「私が会社で一番怖いと思うのは彼らです。部長でも本部長でも怖いと思ったことは一度もありません」
「私もかね」
「はい」川岸はハッキリと答えた。
「なぜかね」
「私はいつも全身全霊を掛けて一生懸命仕事をしております。それでできなかったら自分の力不足でしょうがないと思っております。それでお咎めがあるなら、覚悟の上です。だから少しも怖いと思ったことがありません」
樋口は顔色一つ変えずに聞いていた。
「所長なんて彼らの信頼をなくしたらおしまいです。彼らの信頼とやる気が所長の命です。だから私は、彼らが一番怖いし彼らに気を使い大事にしています。私は彼らにやる気を出してもらうために彼らと同化しました。それがト金会です。『俺たちは会社からあっち行けと言われればあっちに行き、こっちに行けと言われればこっちに行き、歩のようなもんや。だけどな、会社は俺たち歩がなければ成り立たんのや。俺たちが会社を支えとるんや。支えるだけやない。歩はいつかト金になって相手の王様の首だって狙えるし大暴れすることだってできるんや。いい仕事をしようやないか』といつも話をしておりました。彼らに希望を持たせ、やる気にさせるにはこれしかなかったんです。今でもこの考えに微塵の迷いもありません。そんな私の考えに呼応してくれた連中が集まってできたのがこのト金会です。何か間違っておりますでしょうか」川岸はグッと胸を張った。
「それじゃ、派閥形成じゃないと言うんだな」
「派閥だなんてそんな大それたものではありません。年に1、2度集まって初志を忘れんように確認し合い励まし合っているだけです」
「そうか、ならばよかろう。しかし、忘れるなよ。けして梁山泊にはなるなよ」樋口は、水滸伝の故事になぞらえて語気きつく念を押した。
「ハイ」川岸も負けないように強く押し返した。
しかし、このト金会は川岸の立場の変化とともに次第に政策ブレーンへの色合いを濃くしていった。

梁山泊、
すでに皆さんもご存知の中国の小説『水滸伝』の舞台となる中国山東省西部に形成されていた無数の水路と沼沢の一帯をいう。梁山という山の麓に展開していたことから梁山泊と呼ばれた。
小丘陵や島が入り組んだ梁山泊は盗賊や政府に反抗する者たちの格好の巣窟となった。
『水滸伝』は、北宋時代の腐敗しきった政府に不満を持つ民衆が語り継いだ物語が元の代にまとめられた小説である。小説では、宋江らをはじめとした義賊や義士たちが主人公となって官軍と戦いやがて鎮圧されていくまでだが、驕り高ぶった為政者や腐敗した官僚に対する民衆の反発心が彼らの活躍に期待を抱かせるように描かれている。
語り継がれた物語であるだけにかなり脚色されているだろう。例えば主人公たちはもともと36人と言われていたが、小説では3倍の108人となっている。108とは仏教でいう人間の煩悩の数で大晦日の除夜の鐘の数である。大晦日に108の鐘をつき煩悩を忘れさる行事のそれだ。こんなところからも創作の色が滲んでくるが、事実は小説より奇なりで史実と信じたほうが面白い。多くの小説家たちが翻訳していることからしても、そう思っている人が多いといえないだろうか。
筆者が読んだのは吉川英治氏訳の『新・水滸伝』だが、今の政治となぞらえても大いに期待を抱かせ、痛快で大変に面白かった。他の翻訳に比べても最も人気が高いようだ。
こうした史実から梁山泊はアウトローたちの巣窟を意味する代名詞のように使われることもある。果たして樋口は何を心配し、何を伝えたかったのだろうか。川岸は「ハイ」と力強く答えている。
翻って今日の日本の官僚政治はいかがだろうか。梁山泊になりえる抵抗勢力はどこなのか。それを日本国民はどこまで支持するのだろうか。

実は樋口も同じような考えを持っていた。
樋口は役員会で、
「俺を解任できるのはお前たちだ。いつ造反が起きてもおかしくないのだからな。そうされないために俺は肩を張って仕事をしている。少しの判断ミスもトップのそれは影響が大きい。常に緊張感を持って経営している」と役員会で牽制している。つまり、取締役会で半数以上の反対意見が出たら多数決により社長の解任ができるからだ。そうならないために一生懸命仕事に打ち込んでいる。樋口もまた部下への気配りと警戒を忘れていなかった。
このことがあってから、樋口は川岸を見所があると思いはじめた。

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